ここは、田舎から出てきたどこーにでもいそうな学生≪ちくわ≫が、日常に流れているあれやこれやを拾い集めて、ある日はすりつぶし、ある日はこねまわし、ひそやかに物語に練りなおしてゆく――そんな場所なのです。

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さらば2016年、たのしかったよ。

(投稿直前の追記:らららぎさんが「ちくわさん、ぼくから見たよ、ちくわさん」を書いてくださいました。)


今年は本厄だったのでびくびくしていたけど、高校卒業以来ではもっとも穏やかな年だったのではないだろうか。穏やかじゃないところがあるとすれば、あんまり人にはいってないけど、春頃に大学のことでひとつ大きな手続きミス(?)があって、そこがいちばん厄っぽいとこで、それでけっこう真ん中らへんは低空飛行でもあったのだけど、いっぽうでとても幸せなこともあったので、トータルとしては良い春、良い夏だったと思う。相変わらず抽象的なことばばかりが続くけど、いろいろとたいへんななかがんばれたのはあなたのおかげです、ありがとう。

そのあと秋冬は学業で忙しくなってきて、ようやく学生らしい過ごしかたをしていたんじゃないかな。この歳になってえらそうにいうことではないけど、先学期は量質ともに大学入学以来で最良の成績もとることができて、ほっとした。


人間関係的な意味での原点回帰にあふれる一年というのか、新しいコミュニティと知り合うみたいなことは少なく、これまで仲良くしてたんだけどなんとなく疎遠になってたような人とじわじわ再会して、またよく連絡を取り合うようになって、24歳の自分なりの距離感を見つけていくみたいなことが多かったと思う。

あと、中高の仲の良かった友達がまたふたりほど東京に引っ越してきた。ひとりは、また東京を去ってしまうけれど、全体としてみんな東京に集まってくるなあという感じだし、それもあって今年はわりと中高の友人と会った。今年はほんとうに、いろんな人間関係(いろんな文化)がぶつかり合わずに人生のなかにある感じだった。バランスというと味気ないけど、たくさん諦めかけてたものを、欲張りなくらい取り戻した。そのことだけでも、いい1年だった。

ちょっと昨日今日、身近なところでいくつかそれっぽい話を見たので抽象的に触れれば、依存とか自立とか承認とか後見とか、それこそ上京したてのころにねぎくんあたりとよく話してた。お互い、なんてぼくがいっていいのかわからないけど、あのころに比べるとずいぶん自分の足場を持てるようになったね、と思うし、そういう話もした。

(散々いろんなとこで書いてるので多くは触れないけど、一昨年はじまった合同文芸誌も、編集さんはじめみなさんのおかげあって今年も続いています。闇のカーテンの如く概念を織り成す彼とかモチベ強い人とかみんなのおかげで今年も楽しく創ることができました。ついでに今月は複数の妖怪にそそのかされて3週間以上ブログを更新してしまって、楽しい時間でした。ありがとうございます。)


ローカルに、具体的に、精神的なコストから逃げずに、プライドより速く、言い訳をいなしながら、というそんなことばの、理解がいくら深まろうとも、ことばだけでは届かないことも多く、アイドリングのまま進まないことが多く、それこそ怠惰だったのだけど、そんなときこそ周りを使えと、周りを頼れといってくれるひとたちがたくさんいた。というか、周りにいる人ほとんどからそれぞれ具体的に言われた気がする。たとえばねぎくんからは「自分ひとりで考えて突破するにはもう限界がきてる」みたいなことをいわれた、その通りだと思う。

あと、冬さんが「自分のことを考えてあげられるのは自分だけ」といってたのがすごく記憶に残ってる。自分だけなんだよなあ。ぼくは「ひとは究極的にひとり」と負の面を削るようないいかたしかしてこなかったけど、それはいいかえれば、ぼくへの配慮ができる可能性を唯一持ってるのがぼくだけということで、ぼくはそういうことを考えてこなかったんだなあと思った。ぼくにはぼくのことを考えられる力があるのだ。来年はもう少しそのことを考えていきたい。

いやはや、ことばは頼りにならないといいながら、こうやってぼくはまたことばを紡ぐしかできないのだなあ。最近はひとつひとつの表現なり弁明なりに、反省につぐ反省が3重4重に織り込まれているので、安易なことはいえないのだけど、まあなんというか、2017年はいっそうことばに生活が追いつくような人生を送りたいなと思う。備えとかな、コミュニケーションとかな、あと素朴にお金もな……ある程度は自分で稼がないとな……(今年のけっこう重要な反省)。


ここ数年、意図したものしてないもの含めて隠しごとチックなのが多くてどんどん元気がなくなっていくので、変なことにならないうちに現時点の今後の予定を公開しておくと、再入学のタイミングやらその時点の取得単位やらなんやらのこともあって、ちょうど1年半後の2018年6月卒業予定。

最後の学期を休学して3月卒業に揃うようにずらすとか、就職関係のことで細かい変化はあるかもですが、ひとまず在籍はあと1年半ほどで、みなさん(もう周りは社会人ばかりだぁぁぁ)にはもうしばらく遅れをとることになると思いますが、よろしくおねがいします。

書類上次の秋から4年生なんだけど、卒論の準備とかは春から4年生になる方々と同時期にちょこちょこと始める予定なり。ただしく忙しい年になりそうだけど、「適切な形で」心穏やかにすごせる一年になればいいなあ、まあ、来年はいい年になるだろう、なんとなくそんな気がする。

ではでは、1年の半分くらいロンパの話をしていた(何万字も書いた!)2016年にふさわしく、ダンガンロンパ3希望編の引用(?)でおわる。よいお年を。


 未来なんて、だれも見たことがない。
 ぼくらの行く先は、いつだって灰色の曇り空だ。
 希望も絶望も入り混じって、どっちがどっちだかわからない。
 それはとても怖いことだけど……
 でも、待っているだけじゃ、なにも変わらない。
 なにが起きるかわからない未来のなかに、ぼくたちは一歩一歩進んでいく。
 大切なひとのことを思いながら。
 空を見上げて、明日はきっといい日になる、って思いながら。


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だれかとおなじ世界に住むということ

視線を動かすと、色とりどりの「何か」がシャンプーとリンスの上の棚に置いてある。なんだろう。興味の方が勝って、ぼくはお湯から出た。静かだった水面がザバリ、と音を立てて、ゆらゆらと揺れている。四角くて、表面に緑と赤のギンガムチェックが印刷?されている。触るとぬるっとして、きっと石鹸なんだろうと思った
——青砥みつ「学生最後の冬」(小説)

他人と住むというのは、自分の知らないものが置いてあるということである。逆にいえば、自分(ひとり)の家というのは、自分の知らないものがおいていないということである。多少の幅はあれど、一人暮らしを始めて1、2度引っ越しでもすれば、家の中に「自分の全く説明できないもの」を残しておくのは難しいだろう。

それは少し大げさにいえばことばと機能の問題とも考えられるかもしれない。ぼくひとりが生活する部屋のなかで、それがなんであるかはぼくが決めた機能に応じて決められる。みかん箱は本を入れれば収納グッズで、その上でパソコンでも使えば机、潰れないように工夫して上に座れば椅子になる。そうして使われるものは「きっと机」とか「椅子のようなもの」ではなく、ただ机であり椅子であるだけ——「それって箱じゃないの?」というかもしれない誰かはそこにいないから。

「ねえ、母さん。お風呂場のチェックのやつ、あれ、石鹸?」
母さんは水道の水を止めて、緑のビニール手袋を外しながらこっちを向いた。
「そうよ、デコパージュっていうの、石鹸の上に紙を貼るのよ」
「それって必要なの?」
「かわいいものは味気ない生活を変えてくれるのよ」
「またそんなこと言ってるの?」
「いいじゃない、かわいいものに理由なんかなくたって」
(同上)

知らないものがあれば、会話が生まれる。それがなんなのか、じぶんの呼び方はそのひとの呼び方と一致するのか、一致しているとしてそれはおなじ意味なのか、ちがうならいったいそのひとはどういう意味をそこに付しているのか、石鹸の上に紙を貼るなんて行為は必要なのか、このカホンには座っていいのか、この空瓶はコップなのか、変な形をしているこれはほんとうにスプーンなのか、レンゲでカレーを食べたりしてバチがあたったりしないのか、このうずたかく積まれた本の山はなんなのか、なにを大事にしなければならないのか、なにを雑に扱って良いのか、優先順位のパラメータはなんなのか、それを受け入れるロジックはどういうものなのか、じぶんの世界観をどう書き換えればそれをじぶんは受け入れることができるのか、じぶんと相手のみている世界は果たして馴染むことができるのか、「ぼくはここにいていいのか」、聞きたいことも考えることも無限大である。

自分の知っているものがあって、知らないものがある、だからぼくたちは日々自然に変化していくのだけれど、そういうことをぼくたちはつい忘れてしまう。じぶんの部屋にこもって、じぶんの知っているものに囲まれて、自分の意味づけした概念に囲われて、自分の検索した世界をサーフィンして、おなじ世界に閉じこもる。それは怖い話を聞いたあとに布団にくるまったときのような、ひとまずの安心感を与えてはくれるけれど、それは平常時なんかではなく、そうとうイレギュラーな状態であるということを、ぼくたちは普段どれくらい意識しているだろうか。

幼いころは、そうじゃなかったはずで、日々、知らないことがあって、もちろんそれは不快なこともあって、なんならつらいことのほうが多いかもしれないけれど、それがあたりまえで、それだからこそ毎日が世界観のリセットの連続で、いろんなことのバランスがとれていたはずなのだ。そういうことを、ぼくたちは自然と忘れてしまう。ひとりで暮らし始めたことが具体的にどんな意味を持つのか考えることなく、ぼくたちはひとりの世界に入っていく、現実的にも、比喩的にも。

無菌室のような自分の部屋では、よくないことはすべて「よくないもの」として現れる。じぶんにとってじぶんを取り囲む概念たちは、すべてわかりきったもので、つるつると滑るもので、だからもう、よくないものはすべてよくないもの以外の解釈を許されず、ぼくは蟻地獄のなかをおちこんでいく蟻のごとく、どこにもすがりつくことができず、奈落の底へと堕ちてゆく。

だから、無茶なことはせずにだれかに助けてもらうことに慣れていこうと思う。この世界には、ぼく以外のだれかしか知らないものもたくさんあるのだという前提をもっていれば、この世界の意味づけはいつだって仮の姿(「きっと石鹸」)なのだから、ふとした違和を起点に「話を進める」生き方ができるかもしれない。

すこし文芸誌に書いたこととかぶるような気もするけど、よくわからないことが起きたとき、それを1から10まで自分の世界に帰責しすぎないようにするためには、世界そのものをいつでも変化させられるような備えが要るのだ、というようなことが書きたかったのだと思う。

この世界には、きみもぼくも住んでいる——そういうことに、しておこう。
 

蛍光信仰(三題噺)

「君はなんのためにきてるの」


そのお姉さんは飾りつけの手を止めずに、そんなことをいった。


「なんのために、ですか」


一瞬、「なんのために生きてるの」と聞かれた気がしてしまったのもあって、答えるタイミングを失ってしまって、とりあえず復唱する。


「私たちは一体、なんのお祝いをしているんだろうね」


「なんの……。誕生日じゃあないんですか」


ぼくはお姉さんがなんの話をしているのかわからなかった。とりあえず、木々の間に、変な飾りのついた導線を通していく。途中、葉っぱが頭にひっかかりそうになって、慌てて身を屈めた。


「そう、誕生日というのはなんなのだろう」


お姉さんはまだそんなことをいっていたけれど、ぼくは次の導線をつなぐ木を確かめなければいけなかったので、それに応える余裕はなかった。お姉さんは、ぼんやりした口調のわりに、驚くほどのスピードで作業を続けている。ぼくもサボってはいられない。


……誕生日。


ぼくたちが定期的にお祝いごとをすることが定められた日のこと。前ということばが前ということばでしか説明できないのと同じように、君ということばが君ということばでしか説明できないのと同じように、誕生日は誕生日で、そこへ向かうことばを紡ぐことがぼくにはできなかった。


とにかく、飾りつけを終わらせなければいけない。また、あの光がやってくる。お姉さんはまだぶつぶつ言っていた。


「私たちが毎日見ているあの光。確かなのは、あの光があるおかげで、私たちが生きているということ。お祝いするのは当然、でも、ほんとうにそうなのかな」


あの光というのは、ぼくたちを照らしているあの神の光のことで、ぼくたちはそのために準備を進めているわけだ。今日は、光の終わりの日であり、光の始まりの日だから。あの光は、たくさん光る日もあれば、ちょっとしか光らない日もある。今日が、ひとつの区切り、誕生日なのである。


「この世界にしか生きていないんだから、この世界の摂理のなかで生きるしかないんだよね……


お姉さんのひとりごとを聴きながら、しばらくぼくは淡々と導線を木に結びつけていたが、ふと、違和感をおぼえて、目の前に残った木、木、木と、手許の紐を確かめる。どう考えても長さが合わない、余るならまだいいけれどこれは絶対に足りない……


後ろを振り返り、頭の中にぼんやりあった平面図と照合する。始まる前にお姉さんと確認した図。


「あっ」


原因がわかる。通らなくていい木を通ってしまった。お姉さんはぼくの声に一瞬こちらを見て、またすぐ自分の作業に戻った。どうする。今ならほどいてやりなおす時間はぎりぎりある……ほんとうにぎりぎりという感じだが……。周りをきょろきょろしても、誰しも自分のやるべきことに追われていて、ぼくが困り果てているのには気づく気配がない。時間だけがすぎる。


今からほどきにいくと相当面倒だ。たぶんどこを間違えたのかはぼくしかわからない。このままいこう。ぼくはそう言い聞かせ、どうやって誤魔化せば導線が足りているように見えるかを考えていた。


「少年少年、あの鏡の位置、あれでいいかな」


ふとお姉さんから声がかかり、ぼくは震え上がる。


「え、え、ああ、いいんじゃないですか」


「ちゃんと見てないでいってるでしょ。けっこう角度調節が繊細だからさあ、いっしょに確認してよ」


お姉さんは上着のポケットから図面をとりだしながら、ぼくのほうに歩いてくる。


「うーん、えっと、これがここでしょ。この位置からあれが見えてるってことは、これでちょうどいいのかな」


鏡を覗き込んでは図面を確認して、難しい顔をするお姉さん。ぼくはただただ、導線の張り方を間違えていることがバレないか、気が気ではなかった。


「こんな複雑な配線、昔の人はどうして考えついたんでしょうね」


ぼくはお姉さんの思考のリソースを少しでも圧迫するため、適当にそんなことを聞いた。こういうとき、話題を思いつくのが上手になればいいのに、と思う。


しかし、問うたことがぼくの疑問だったのもまた事実だった。縦横無尽に張り巡らされる、導線と鏡の迷路。ぼくたちはそれを配線と呼んでいたけれど、こんなに入り組んだ編み模様を、一朝一夕に思いつけるとは、とても思えない。


「私はリケイじゃないからわからないけど」


お姉さんはそんな前置きをした。ぼくにはまだよくわからないけれど、このお姉さんは大学というところに行っていて、そこで見聞きしたらしい難しい話を始めるときはときどきそういう留保をする。何度かしか顔を合わせていないけれど、このお姉さんはなんでも知っている。それなのに、どうして自分を低く紹介するのか、ぼくにはよくわからなかった。


「光の線と、リアルな導線、この組み方は、ほんとうに複雑なんだけれど、ある目的のために最適化された方法らしいんだよね。それがなんの最適化なのかはよく知らないけれど、おなじようなことをやみくもにやろうとしたら、この3倍も4倍もごちゃごちゃした配線になるらしいよ」


この3倍も4倍も。ぼくにはとてもじゃないが想像はできなかった。


「これはまだ、シンプルなほうだってこと」


「そうね、というより、なにかをシンプルにするためにベストな複雑さを持っているんだよ」


お姉さんのいっていることは、禅問答のようだった。


「この向こうに、なにかがある。私たちがやっているのは、手段の部分」


簡単なものを生み出すためには、複雑な方法をとらなければいけない。ぼくはなんとなく、さっきの配線を間違えたままにしていることは、もしかしたらとんでもないことなのではないかと思い始めた。


「あの光を正しく誘導できなかったら、どうなるんですか」


「わからない。だから私は、その先になにがあるのかを知りたいんだよ」


ぼくは頷きならがら、そろりそろりと適当な木に移動して、残りの導線をくくりつけた。もうどうしようもない。話しているあいだに時間も経ってしまったし、諦めよう。


「私たちは、『誕生日』のためにこのお祝いをする。なんども繰り返せるものというのは、複雑だからこそ、繰り返せる。これが繰り返しなんだってわかる。だけど、その先に、繰り返してまでやりたかったことがあるはずなんだよ」


お姉さんは、いちばん奥の鏡の角度を微調整している。光はここから入ってきて、まずこの鏡に反射する。あとは順々に鏡をめぐり、導線の回路とそれぞれ絶妙なタイミングで気が流れてゆくのだ。


「まあこんなもんかな。なんとか間に合ってよかったよ」


間に合ってないんだけど……まあ仕方ない。そろそろ、あの光がやってくる。その訪れはぼくたちには、どうしようもないのだ。


「あの光は、どうして日々移りゆくのかって考えたことはない?」


お姉さんが、光のやってくる方向を見つめながら聞いてくる。


「どうしてもなにも……そういうものなんじゃないですか」


「多くの学者が調べているけれど、原因はわかってない」


「闇の中ってわけですか」


「光の中って感じかな。ただ最近の研究で明らかになったことがあって、あれは本来変化するはずがない光だということ……


変わるはずのない光が変わってゆく。そういわれてもなんだかピンとはこない。ぼくたちの生活は、時事刻々移りゆくあの光を基準に営まれている。なんなら、時事刻々ということばがあの光で決まっているといってもいい。あの光が変化しないというのは、それこそ、時が流れないというようなものだ。


ぼくが話を理解できる形に落とし込むのを、光のほうは待ってくれなかった。不思議な白色光が、輝き始めた。


   ☆  


「いかにして管理するか、それが問題なんだよ。ぼくたちは太陽の生まれた日をお祝いして、それがいつかクリスマスになって、二千年以上続いてる。光というのは命の源だ。だからそのくらい、光の生まれる日を信じるというのは、生き物にとって強いモチベーションなんだ。だからそれを利用すれば、どんな複雑な回路も彼らは組んでくれる……そう信じてたんだけど」


「ぜんぜんプログラム走らないじゃないですか、失敗ですよ失敗」


「おかしいなあ、こないだやったときは何度も成功したんだけど」


「はいはい、言い訳はいいから。人工知能に擬似宗教をつくりだすなんて無謀だったんですよ」


「なんでだろうなあ、どこの世界にも、サボる奴はいるんだなあ」


「やっぱり手抜きせずに、自分で配線を組みなさいってことですね」


「ちぇ、いい方法だと思ったんだけどな……」




#創作三題噺深夜の60本一本勝負_20161223
21:00-22:00
妖怪三題噺( @3dai_yokai )から以下のお題をお借りしました。 
「誕生日」「蛍光」「方法」

22日目のアドベントカレンダーをはじめるよ

はじめに夢日記。

結婚後ののび太がやってきて新婚生活についてのブラックジョークを言っていったり、イノムと浄土宗は法然だっけ、みたいな話をしたりする。日本史選択じゃないから〜とこういうときだけそういうことをいってみる。起きてから思い出すと彼も日本史やってたか記憶が定かじゃないが。ちなみに浄土宗の話くらいは中学で習う、というかじゃなきゃ夢に出てこない‥…あと母親に怒られたりする、家の間取りが小学生時代の家。布団から這い出して眠いので隣の部屋でごろごろしてると、千代恋がやってきて、隣の田中さんの家に間違って荷物が届いてるかもしれないというので、二人で取りに行こうとして、でもパジャマだからと気づいて着替えようとして、よく覚えてないけど隣の田中さんの家に行く前に場面は転換した。気づくとクラス替えをしている。知らないクラスはいやだなあ、1組がよかったなあと思う、中学のとき3年連続1組だったからその記憶の残滓だろうか。新しく知り合った隣の席の女の子がとても優しくしてくれてテンションがあがるも、しばらくして「あの人はネカマだよ」と教えてもらってテンションがガタ落ちする。どう考えても現実に話をしてるのでネカマとかありえないのだが、そうした整合性は夢ならではである。夢のなかとはいえ結構本気で落ち込んだ。どんより。夢でよかった。あとなぜか黒崎さんが出てきた記憶もある。起きる直前のことはよく覚えていない。

おはよう。ここまでは実話、いや夢だから実話じゃないけども、とにかくね、それじゃあ12月22日のアドベントカレンダーをはじめるよ。

いやはや、夢というのは不思議なものだ。起きたらすぐに消えてしまう。断片はおぼえてるんだけど、すごい勢いでリアリティを喪っていって現実のロジックに暴力的に書き換えられる。昨日の夜より今朝の夢のほうが最近の出来事のはずなのに、ボクたちは昨日の夜のほうだけを覚えてて、夢のことは忘れてしまうんだ。

つまりさ、こういうことがいいたいんだ。ボクはずいぶんといろんなボクの連続で生きているような気がしてて、たしかにいろんなボクがいるんだけど、そのときに名指されるいろんなボクっていうのは、ボクボクボクたちっていうとただの一人称複数になっちゃうから、インドネシア語式に重ねてみたよ!でも「われわれ」もただの一人称複数だね……)のなかでも、やっぱり強いボクボクのことを思ってる。

今日は雨も降って、春みたいな気温だったからさ、春のボクが呼び出されてきて、不思議な感じだったんだけど(あほ山とばか山のあいだを通りながら、あ、山が禿げてるなあ、冬だからか、と気づいたのは、今日が春みたいな気候だったからかもしれない)、それでも、春夏秋冬のボクというのは、互いにべつのボクでありながら、それでも主流派のボクなんだよね。なんかもっと、夢のなかのボクみたいな、儚いボクもいるんだろうなって思った。

もちろん簡単にそいつらは出てこない。ブログを書くボクは、いくつかいてもやっぱり書くボクボクでしかなくて、そうそうマイナなボクボクに筆を執らせることはできないけれど、とはいえそれでも、毎日アドベントカレンダー妖怪が見張っててくれたおかげで、アドベントでもなければ書かなかったようなボクボクをたくさん呼べた。というか、全記事がそうだろう。ほとんど自己満足ではあったけれど、なかなか楽しかったよ。まだあと数日あるけど。

いろんなボクを呼ぶためには、それを呼ぶための文脈が必要で、その文脈を置くためには、なんていうんだろうね、それなりに安心感がないとできない。風呂敷を広げるためには広いスペースが必要で、怖くてガチガチに固まってるときってさ、とてもじゃないけどそんな場所を確保できないんだよね。

ボクはこの2年間、ずっとローカルであろうと言い続けてきた。よくおぼえてないけど、2年前にねぎくんと通話してたときにどちらからともなくそんな話になったんじゃなかったかな。あのころのボクというのはほんとうに世間というものが怖くて、社会というものが怖くて、その怖さはアカデミズムへの怖さと、おなじ構造を持ったものとしてボクのなかで重ねられていた。だから、そのころのボクにとって今よりずっと、そういう問題が切実だったのはなんとなくおぼえてる。

ローカルに生きるというのは、ボクひとりで生きないということであり、そして同時に世間のなかでも生きないということだ。いっけん無茶なようだけど、それを無茶だと思うところですでに罠にはまってる  ボクと世界という二元論にさ。たとえば市場原理信仰や科学信仰が強すぎて、そこから脱出するために極端に「ボク」に閉じこもる道へ進んでしまうみたいなこと。たとえば「社会に流布した価値観」を否定したいだけなのに「ボクさえ良ければなんでもいい」という独善的な思想を採ってしまうみたいなこと。

「『普通』の世界のすくいかた」から距離をおきたいのであれば、とりあえずは「ローカルな世界のすくいかた」を試すだけで良い、やけくそにならずとも、「仲間はたくさんいる」んだ、と、それがたぶん、2年前くらいに考えたり書いたりしてたことだった。時間が経ってみれば、ずいぶんと当たり前のことなんだけどね、あのころのボクはほんとうに疲弊してたんだ。

なんだかんだいってボクたちは、なんらかの価値観に身を浸すしかなくて、それはひとつより2、3あるに越したことはないんだけど、注意しなきゃいけないのは、それは「2、3」だからいいのであって、なんでもかんでも相対化して、ひとりで世界に立ち向かおうなんてしないほうがいいんだ、たぶんね。そしてその選んだ先というのは、間違いかもしれない、なんなら絶対に間違っている、ボクたちは神じゃないから、かならず間違う。だけど、間違わないことを目指すためにひとりになるよりは、間違っていることを織り込んで生きていくほうが、正しいとはいわないまでも、少なくとも「ボク向き」なんだと、そういまは思う。

数撃ちゃ当たるじゃないけどさ、いろんなボクを呼んではじめて、うまくいくこともある。それができるくらいには安心させてくれる場所がいくつかあって、ボクは本当に感謝してる。かっこうつけずにいえば、いい友達がたくさんいる、ありがとうってことだよ。これを読んでるだろうひとも、まず読まないだろう人も含めてみんなね。三日坊主なボクが22日もブログを書き続けられている(4年半の練物語史上、過去最長記録!)のも、キミたちのおかげだよ、ありがとう。

いつも心に中二病というのなら、まずはこういう中二病を、持って生きていこうよ。ボクはそうする。こちらからは以上だよ、厨二スピリッツにあふれるボクよ、還ってきたときに、また会おう。

できること

先週、2回連続で休講になった授業、先生がインフルエンザにかかっていたらしい。気をつけねば……。そういうわけでゲストスピーカーさん(代がかぶっててもおかしくないくらいの近い先輩だった)が改めてやってきて、いろいろお話があった最後に、アートのオークション、それもお金以外のものを使ったオークションをやってみましょう、というワークショップが行われた。

じっさいにアーティストさんがこうこうこういう作品ですと作品をプレゼンし、学生がそれにお金以外のもので入札していく。お金以外なので最後まで順列がわからない。インスタで写真を載せます、その作品がつくられるまでを描いた演劇をやります、100人規模のセミナーで時間を提供できます、実家から送られてきた箱いっぱいのみかんをあげます、歴史があるものつながりでへそのおと交換します、などなどいろいろ意見が出たが、「ぼくはつい作品に込められた物語を忘れてしまって、今回まわりを見てないことがよくわかったので、このスマホと交換します」というひとがいて、そのひとが落札して終わった。

スマホ、ほんとに渡しちゃっていいのか……??? と思ったけどまあそれはいいけど(よくない)、いろいろいわれてもつい脳内で金銭に換算して順位づけしてしまう癖が抜けず、貨幣から自由になるのは難しいなあと思った、というそれっぽい感想もまぁわりとどうでもよくて、ぼくがその模擬オークション(?)中ずっと考えていたのは、「自分になにができるか」をパッケージ化する度胸がぼくにはないなあということだった。

バイトしてるときとか、フリーペーパーの手伝いしてるときなんかによく思ってたけれど、自分のちょっとした能力みたいなの(ほかのシンプルな言い方がないのでとりあえず便宜的にそうかく)が発揮されるときって、ぜんぜん本業じゃないところ、つまり蕎麦をつくったり勉強教えたりとはぜんぜんべつのところで、食塩水の問題よろしくつゆの濃度を暗算できたり、エクセルで簡単な原価率計算表をつくれたり、pdfを結合するフリーソフトの存在を知ってたり、無許可で外でチラシを配っちゃ(ほんとうは)いけないということをわかってたり、文章を切り刻んで整理することに慣れていたり、その程度のことにすぎない。

そういうことが積み重なって多少は無価値ではない人間になったような幻想をみることはできるかもしれないけど、それは小さな問題がおきたときに「たまたま」対処できたり、小さな問題が起きることを「たまたま」予防できたりする程度のことであって、なにも問題が起きていないときに改めて聞かれて「ぼくはこういうことができる人間です」といえるようなものではない。だれしもそうだと思う。

もちろん能力というのは結果のことだから、それがもとから実在的にあるというのはそもそもへんてこなのかもしれないが、今回の「その作品をもらう代わりに、提供できるもの/こと」という文脈では、どうしても事前にパッケージ化することが求められるし、であればその枠組の中では確かに意味を持った「問題」になる。いっそ、これが比喩であれば、つまり現実中の会話なりのコミュニケーションの話であれば、たぶん文脈は相手とのすりあわせの中で決まっていくのだけれど、とはいえ、オークションの性質上こちらが声をあげるしかない。そこに金銭を使わないという縛りが入るのはなかなか面白い。文脈なしで使える価値こそ貨幣なのだから。

(ちなみにいえば、これはいわゆる就職活動などの場合とは明確に異なると思う、あれは向こうが使える人間を探しているというコンテクストがはっきりしているので、こちらからしかアプローチできないとはいえ事実上は先方がさきに声をあげている。)

自分になにができるか、をひとつの形式に落とし込んで、文脈抜きでひとに投げるような強さ、ぼくにはないなと思った。誤解のないように書いておけば、今日のような場ではなにかしら思いついたことはいったほうがいいし(それはコミュニケーションの問題だから)、考えること自体は楽しかったし、ほかのひとのを聞くことも含めとてもためになる時間だった。ただそれはそれとして、「できること福袋」を、コミュニケーションとは別のところで純粋につくることがぼくにはできない、ということを強く感じたという話で、それがいいことなのか悪いことなのか、書いててどんどんわからなくなったけど……どうだろうか、そういうのってみんなすぐ、思いつくものなのかな。

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