ここは、田舎から出てきたどこーにでもいそうな学生≪ちくわ≫が、日常に流れているあれやこれやを拾い集めて、ある日はすりつぶし、ある日はこねまわし、ひそやかに物語に練りなおしてゆく――そんな場所なのです。

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だれかとおなじ世界に住むということ

視線を動かすと、色とりどりの「何か」がシャンプーとリンスの上の棚に置いてある。なんだろう。興味の方が勝って、ぼくはお湯から出た。静かだった水面がザバリ、と音を立てて、ゆらゆらと揺れている。四角くて、表面に緑と赤のギンガムチェックが印刷?されている。触るとぬるっとして、きっと石鹸なんだろうと思った
——青砥みつ「学生最後の冬」(小説)

他人と住むというのは、自分の知らないものが置いてあるということである。逆にいえば、自分(ひとり)の家というのは、自分の知らないものがおいていないということである。多少の幅はあれど、一人暮らしを始めて1、2度引っ越しでもすれば、家の中に「自分の全く説明できないもの」を残しておくのは難しいだろう。

それは少し大げさにいえばことばと機能の問題とも考えられるかもしれない。ぼくひとりが生活する部屋のなかで、それがなんであるかはぼくが決めた機能に応じて決められる。みかん箱は本を入れれば収納グッズで、その上でパソコンでも使えば机、潰れないように工夫して上に座れば椅子になる。そうして使われるものは「きっと机」とか「椅子のようなもの」ではなく、ただ机であり椅子であるだけ——「それって箱じゃないの?」というかもしれない誰かはそこにいないから。

「ねえ、母さん。お風呂場のチェックのやつ、あれ、石鹸?」
母さんは水道の水を止めて、緑のビニール手袋を外しながらこっちを向いた。
「そうよ、デコパージュっていうの、石鹸の上に紙を貼るのよ」
「それって必要なの?」
「かわいいものは味気ない生活を変えてくれるのよ」
「またそんなこと言ってるの?」
「いいじゃない、かわいいものに理由なんかなくたって」
(同上)

知らないものがあれば、会話が生まれる。それがなんなのか、じぶんの呼び方はそのひとの呼び方と一致するのか、一致しているとしてそれはおなじ意味なのか、ちがうならいったいそのひとはどういう意味をそこに付しているのか、石鹸の上に紙を貼るなんて行為は必要なのか、このカホンには座っていいのか、この空瓶はコップなのか、変な形をしているこれはほんとうにスプーンなのか、レンゲでカレーを食べたりしてバチがあたったりしないのか、このうずたかく積まれた本の山はなんなのか、なにを大事にしなければならないのか、なにを雑に扱って良いのか、優先順位のパラメータはなんなのか、それを受け入れるロジックはどういうものなのか、じぶんの世界観をどう書き換えればそれをじぶんは受け入れることができるのか、じぶんと相手のみている世界は果たして馴染むことができるのか、「ぼくはここにいていいのか」、聞きたいことも考えることも無限大である。

自分の知っているものがあって、知らないものがある、だからぼくたちは日々自然に変化していくのだけれど、そういうことをぼくたちはつい忘れてしまう。じぶんの部屋にこもって、じぶんの知っているものに囲まれて、自分の意味づけした概念に囲われて、自分の検索した世界をサーフィンして、おなじ世界に閉じこもる。それは怖い話を聞いたあとに布団にくるまったときのような、ひとまずの安心感を与えてはくれるけれど、それは平常時なんかではなく、そうとうイレギュラーな状態であるということを、ぼくたちは普段どれくらい意識しているだろうか。

幼いころは、そうじゃなかったはずで、日々、知らないことがあって、もちろんそれは不快なこともあって、なんならつらいことのほうが多いかもしれないけれど、それがあたりまえで、それだからこそ毎日が世界観のリセットの連続で、いろんなことのバランスがとれていたはずなのだ。そういうことを、ぼくたちは自然と忘れてしまう。ひとりで暮らし始めたことが具体的にどんな意味を持つのか考えることなく、ぼくたちはひとりの世界に入っていく、現実的にも、比喩的にも。

無菌室のような自分の部屋では、よくないことはすべて「よくないもの」として現れる。じぶんにとってじぶんを取り囲む概念たちは、すべてわかりきったもので、つるつると滑るもので、だからもう、よくないものはすべてよくないもの以外の解釈を許されず、ぼくは蟻地獄のなかをおちこんでいく蟻のごとく、どこにもすがりつくことができず、奈落の底へと堕ちてゆく。

だから、無茶なことはせずにだれかに助けてもらうことに慣れていこうと思う。この世界には、ぼく以外のだれかしか知らないものもたくさんあるのだという前提をもっていれば、この世界の意味づけはいつだって仮の姿(「きっと石鹸」)なのだから、ふとした違和を起点に「話を進める」生き方ができるかもしれない。

すこし文芸誌に書いたこととかぶるような気もするけど、よくわからないことが起きたとき、それを1から10まで自分の世界に帰責しすぎないようにするためには、世界そのものをいつでも変化させられるような備えが要るのだ、というようなことが書きたかったのだと思う。

この世界には、きみもぼくも住んでいる——そういうことに、しておこう。
 
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ぼくのかんがえたさいきょうのじかんわり

毎学期、履修登録の時期になれば、自分のとりたい授業を決めることになる。もちろん、4年間(4年間とはいってない)履修計画もあるし、そのときどきの都合もあるし、完全に自分の好きなように決められるわけではないけど、それでも、細かい部分での選択はそれが自分に合っているか、どれを自分がやりたいか、という選択になってくる。

〈「教えて」には、どういうことをどういう風に教わりたいのか見えない註釈がたくさんある〉ーーらぎさんが昨日そんなことを言っていたけれど、好きな学び方とか、好きな知り方とか、恋愛とかでいえば好きなタイプとか、ぼくたちはすごくわがままにそういうのを持っていて、そういうのは名詞では説明しにくい。タグづけによって、特定の共通項を持つものを一覧するのがたやすくなったこの時代にあっても、「こういう感じが好き」というのは、ひとつひとつ目で見て肌で感じて、ことばにしにくいイメージで判断してゆくしかない。

それはたぶん、みずきさんが「あみめでぃあ」の3号に書いていたように、「居心地がいい」「居心地がわるい」というのが、ぼくたちとその場所との、どちらに属するともいいがたいものだからだろう。厳密さを捨てていえば、二重主語をとるからだろう。ぼくはあの街が懐かしいとか、ぼくは水泳が得意じゃないとか、二重主語をとる述語は、その心地がぼくと対象のどちらにあるものなのかを簡単にきりわけられない(それなのにこうしてすっぽりことばに収まっているという事実には、感動さえ覚える)。

みずきさんが「あのレストランの居心地は36点くらいだな」とはいえない、といういいかたで指摘している通り、「居心地」というものはたぶん「居心地がいい」「居心地がわるい」ということを離れて名詞だけとりだすことが適切ではない。

そしてそれは前提として、そうやって目の前に取り出せないものだからこそ、それは自分にとって都合が良いだけのもの、精神的コストが低いだけのものになってやしないか、ということが不安になる。

(恋愛的な意味での)好きなタイプをきかれても、たしかにこういうひとと付き合いたいみたいなのが想像のレベルではあるけれど、それはけっきょくはたとえばぼくのコミュ力を補ってくれたりするような能力をやんわり言い換えていたりするのであって、そんなことを願望として口に出すのはどうなんだ、と思う。

自分にとって居心地の良いクラスだけを選んでつくった「ぼくのかんがえたさいきょうのじかんわり」を眺めながら、そんなことを想った。

はあ、せっかくの休みなのに携帯とパソコンでそれぞれ問題が起きてあんま書けなかったなあ、また続きを書くことがあるかもしれない。

どうしてぼくは、また「冬という季節のぼく」になっているのだろうか

 夏がくれば夏のぼくとつながり、冬がくれば冬のぼくとつながる。
 そうやってぼくたちは、螺旋的に歳を重ねる、渋谷の東急ハンズみたいに。
 誰が設計したのだろうか、この迷路のような人生を。

 ぼくたちはよく覚えているものについては、いちいち真面目に見ていないみたいなこともよく聞く。
 いつも通る川沿いの道はもしかしたら最初の2、3回しか見ていなくて、あとはそのときの記憶を重ねてバーチャルに歩いているのかもしれない。
 そんな極端な話なわけはないのだけれど、そう思いながら帰っているとなんだかそんな気がしてくるから可笑しい。
 マスクから漏れ出る白い吐息が眼鏡を曇らせて、ただでさえ真っ暗な夜道がさらに見えなくなって、でもぼくは道を見ているような、気がしてくる。
 ぼくはなにになにを重ねているんだろうか。

 どこかの街に遊びに行った時、その街の思い出を思い出し、昔きいてた曲を聴けばその時代と同期する。
 そうやってぼくたちは、人生が縦横斜めに整理され、勝手に糸を通されて、通し損ねた糸が絡まったりする。
 ぼくはそんなふうに整理しているつもりはないのに、おなじところを歩いていると思えるのはなぜだろう。

 なぜぼくは失敗するたび、この展開は前にもあった、と思うのだろう。
 「おなじ時のレールを歩いている」なら、おなじとはなんだろう。
 元気なぼくにつながりたいときに元気なぼくを呼びだせればいいのだが、そういうふうにはできていないのはなぜだろう。

 この文章は誰が書いているんだろう。

 ブログを書いているときはブログを書くぼくが現れて、それが串刺しになるようにアーカイブが溜まっていく。
 螺旋階段のひとつの壁面としての練物語、この壁面はどうして、ここにこうやって積み上がっていくのだろう。

あるものはあるんだ

忘れていたけどブログもけっこうな記事数があるし、合同誌とか、いろんなとこで文章を書いてもいる。ぺらぺらと、あるいはへらへらと、理屈っぽいことを書いてきた。抽象度をあげていえば、もうずいぶんと長いあいだそんなことをしてきた。

だけど、やっぱりほんとうは、へらへらなんてしていられなくて、ただ生きているということが不思議でしょうがない。そういえば100質の最初のほうの、「存在とは」みたいな問いに答えていなかったけど、わからないものはわからない。わかるのはどういうわけか存在しているとしか思えないという感じだけだ。

傷口に無数の蟻が群がって、その気持ち悪さに叫び声をあげるというおぞましい夢を見たことがある。いや、傷口というのはイメージを抱いてもらうためのとりあえずの表現であって、夢の中では「傷口」というよりも、自分という輪郭の裂けめ、境界の破れめとでもいうようなものだったように思う。

目が覚めたときぼくは心からほっとしたものだ。目は閉じていたので身体を確認したわけではないのだけれど、ぼくの輪郭は(少なくとも夢の中よりは明確に)はっきりとしている、確実にある、という感覚があり、ぼくはその感覚の「端的さ」に感動した。

端的というのか、文字どおり「端(ハシ)」的というか、要するに「無根拠だけれどとにかく事実としてそうである」というありよう。どうしようもない感じである。

当たり前のことなんだけど、ぼくたちが恋に悩むのも、懐古厨になるのも、いやな仕事がつらいのも、「なんでかわからないけどあるものはあるんだよ」としかいえないくらいどうしようもなく「あるものはある」からだ。「つらいものはつらい」からだ。それを「でもこれはこうもいえてね…」と相対化しても(じつは)意味がない。というか、一瞬崩せたような気がして、世界を崩し切ったあとにまた問いが戻ってくる。そういうことを、もうなんどもやってきた。

「おなじ」と「ちがう」は固定されたものではなくあれこれ範囲をいじれる、みたいこともよくいっているけれど、それは恣意性を強調して、崩すべき前提を一度崩すために手段としてそう言っているだけで、数学における同一視みたいに、ほんとうに自在に操れるわけではないのだ。いや、数学における同一視だって、どうして一部の同一視にだけ特別な名前がついているのかということを考え出せば、けっきょくぼくたち側の話になってこざるをえないだろう。

よく出されるタイプの例だけど、あれとこれが同じだというのは、ある意味ではやっぱり勝手に決まってしまうものだ。ぼくたちはトマトと林檎を同じ色だと定義して赤という概念を使うのではないーートマトと林檎とアボカドが並んでいたら、ついついトマトと林檎の赤さをひとくくりで見てしまうのである(異論は挟みうる)。

なにが恣意的なのか、なにが定められているのか、なにがあるのか。あるとして、それは世界にあるのか、言語の上のはなしなのか、ぼくたちの身体の問題に還元できるのか。すべては言語だとかいいたくなるわりに、けっこうナイーブにこういうところをぐるぐるしたくなる。昔も今も、ぼくはずっとぐるぐるしている。

六月八日に書いたやつ

(追記、某合宿で「ちくわくんがブログ書いてると書きたくなる」と言われたので、ろーかるにあった記事をとつぜん公開した)

ろっくがっつむいかに雨ざーざー降ってきて。
今日はろくがつようか。

人生は楽しい。楽しいことに満ちている。だけどもちろん楽しくないことはたくさん混じっていて、それに対する耐性が弱すぎることが、ぼくの弱みなのだ。楽しくないことは楽しいことに無関係に現れるとも限らない。つまり、生活は楽しいことで溢れていて、溢れたものがお互いに競合して、ぼくはたびたび選択を迫られる。文字通り邪魔ものに思えてしまう。どちらが本物で、どちらが邪魔ものなのか、その決定を強いられる。

何かを見ているときには、その何かを見続けることを邪魔しようとするものはすべて不要なものに見えてしまう。何も見ないと選択なんてできないし、すべてを同時に見ることもできない。選択は常に「何かを見ながら」行われている。

ぼくは自分のいっときの考えがアテにならないことをよく知っている。この数年でよくよく身に染みて知っている。しなくてもいい選択をわざわざ掘り出してきて、いっときの気の迷いで未来が大きく ― 世界線変動率数パーセントレベルで ― 変化してしまうような二択三択のなかで迷いを繰り返してきたからこそ自覚しているけれど、一瞬の感覚なんてほんとうにあてにならない。

某所にも書いたことのほとんどコピペになるけど、「空腹や眠気や体調で変わるし、暑いか寒いかでも変わるし、アルコールが入ってもカフェインが入っても変わるし、やらなきゃいけないことが目の前にあるかどうかでも変わるし、自分なんてそういう意味では信用ならないやつナンバーワン」なんだ。

正直、ブログを書くうえでいちばん気が重いのもそれで、元気なときに書いたことを元気じゃないときに思い出すと、消したくなるどころか消えたくなる。ぼくの場合はそれでもそこそこ一貫性の感じられる「ぼく」の範囲におさまっているけれど、これが極端になると躁鬱とかになるのかな。わからないけど。Twitterはその点、その上下のリズムを音楽的なものとして記録している感じがあるから、よほど変なことを書いてない限りあまりあとから後悔することはないのだけれど、ぼくはまだブログをそういう感じに捉えるには至っていなくて、だからどうしても気が重くなる。固定的な思想なんてひとは紡げないのだっ、ということを常に識っているべきだし、わがままながらぼく周辺のひとにもそういう空気が漂っていてほしいなって勝手に思う。

それはさておき、選択の話だった。ぼくたちというか少なくともぼくは、ちょっとしたそのときの気分で重大なものごとを決定してしまう。それは良いこととは言い難いけれど、先に書いたように不可避なものだ。ほんとうのじぶんというタイミングが客観的に存在しない以上、「選択に最適な精神状態」なんてものは存在しないし(眠い今より明日起きてからのほうが明らかにマシとかそういう比較は多少できるにしても)、やばそうだから選択を先延ばしにするというのは大概それ自体が最悪の選択だったりするし、選択を迷っているその瞬間に「自分が(その選択肢のどれかにつながるような)どこにも属していない」なんてことは稀なケースだからそもそも中立での判断など臨めない。

ハウツー的に対策するとして、運命(それを判断したタイミングがたまたまそのタイミングだったのだという偶然)に身を委ねるか、過ぎし日の自分(こういう価値観であるぼくのほうが、こういう価値観であるぼくより、たぶん多かった)を言い訳に使うか、くらいしか落としどころはないのかもしれない。
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