ここは、田舎から出てきたどこーにでもいそうな学生≪ちくわ≫が、日常に流れているあれやこれやを拾い集めて、ある日はすりつぶし、ある日はこねまわし、ひそやかに物語に練りなおしてゆく――そんな場所なのです。

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ありがちだけどひと月を振り返ってみる。[2013-01]

飽きなければ来月もやる。

バタバタと、でものんびりと始まった新年だった。

映画の撮影やら、成人式やら、部活のOB会やら、同窓会(?)やら、色々ありすぎて、非日常なのに地元にいた頃の日常の続きをぽっと再生したかのような冬休み。

最初の数日間で一年分のリア充成分を使い果たしてしまったなーと思いながら東京に戻ってくる。

_中学生のぼく「おまえ、そんな幸せな2週間を過ごしておいて、

_______東京もどった途端すぐやる気が消えたりするわけないな?

_____ぼく「お、おう…(かすれ声)

早速東京に戻って一日で気力を失って気分が深く深く沈んでた。

あとから思うと、5月だったか6月だったかにクズまってたとき並みに授業休んだし、課題は出してないしあーあーあー。

でも意外な人から連絡が来たり、意外な人から手紙が来たり(早く返事書きましょう……)とかのおかげで無事暗黒の海から生還した。

われながら単純すぎて笑える。

というか沈み方で言えば浪人のときの方が多分ひどかったし、これは大したことなかった、たぶん。

三連休は、『もしドラ』の人の講演きいたり、某友人と噂の渋谷ヒカリエを訪れたり(建物の構造と、中の”雰囲気設定”みたいなのが面白かった)してた。

成人の日には大雪がふったけど、ビックマック無料を求めてマックまで2往復したら2回目の途中で折り畳み傘がぽっきり破断。(しかしまぁ楽しかった)

翌日はテストが一コマあっただけだったので大学で雪だるま的なものをつくった。

このあたりから午後授業がない日に図書館に籠るようになる。

 

全国で50万人の少年少女がセンター試験を受けているなか、のんびり高校サッカーの決勝の録画放送を観てひとり盛り上がり、何故か高校の友達と地元の郷土料理(?)を出す店に食べに行き(手頃な値段でとてもおいしかった)、何故かそのまま彼の家で映画観たりして泊まる。

センター試験二日目は、某友人の合唱を聴きにいって「僕も何か『ひとりでできないこと』をやろうかなぁ」と一瞬考えるも、帰宅中に「某東大生がセンターモニタで942/950得点」ってのを見て色々ふっとぶ。

 

文章書くタイプの英語の試験があって、相変わらず時計を忘れ(大学の試験で時計を持っていった記憶がそういえば一度もない。毎回後悔する)たけど、珍しく最後まで書ききったので満足。

まぁ、日本はヒト型ロボット作るぐらいだから心と体が分離するものだってことわかってんだよつまり二元論は日本人にも通じるんだよ~とか自分でも「ふざけんな嘘つくな」って言いたくなることを途中で書いたからあまり思い出したくない。

一週間前あたりには部屋の鍵をなくしてテンションがガタ落ちするも、横浜に演劇観にいって某友人の家で鍋をつついてとりあえずそのことは忘れる。

終電逃したことにしてそのまま泊まり、翌日の授業はなかったことにしてラーメン食べてた。

さすが、横浜のラーメンはおいしいですね。

 

結局のところ多分、学期通して書き続けるエッセイが全然進まずその負い目からちょいちょい授業休んでたというのが正確なところ。

こないだの土日は、記号論のレポートっぽい課題の締め切り前だったのでそれ+上記のエッセイのことが頭の片隅にあってうだうだしていた(やれよ)。

鍵もないので外出する気にならなかったけれど、とりあえず日曜の午後は大学の図書館に行く(本の返却期限だったからというのが大きい)も、気付くと自分の読みたい本読んでるだけで課題は進まなかった。

しかしそのあと鍵が見つかり気分が回復し、徹夜してる間になんとか書くことを思いついて記号論の方はしあげたので満足。

そのあと今週は、来年度の時間割(の一部)の予備登録が始まったことで少し先の未来に思いを馳せたりしつつ、あー昨日は京都の友達と哲学談義モドキして夜更かししてた。

 

 

こうして見るとわりと普通の生活送ってる感じがして、人間ってゲンキンだなぁの一言だな。

とりあえずちょいちょい何かあれば普通に楽しく生きていけるみたいで、どこまでも単純、どこまでも平凡な大学生でした、ちゃんちゃん。

独学もどきというか読書もどきというか、ともかくも勉強したいことをすぐに勉強できる状態にあるのを今月はわりと活用できた気がする。

こんな感じでいければ精神安定しそうだ。

ただまー、昨日の記事に書いたように、避けられない「嫌なこと」が迫ってきた時にこの感じを維持できるのかというのが怖い。

現に今年度の前半はちょっとしたことで破綻して、小さなほころびから生活全般だだ崩れだったし、これから先そういうことが起こらないとも限らない……。

どうしたもんかねぇ。

 

とりあえずそれはおいといて。

思えばクズな10ヶ月だったけれど、いよいよ2月で今年度の授業(&試験)も終わり。

終わりよければすべてよし」になるよう頑張っていこうではありませんか(所信表明風)

 

あ、頑張るじゃなくて具体的に書かないと人間いつまでも動かないのだった。。。

今月の直接の反省はどう考えても、前々から早めに行動しなかったことであって、というかこれってこの10ヶ月の反省だと思うんだけど、まぁともかくそういうことなので、2月はそういうことがないようにってのを目標にしましょう(ノリが小学生)

とりあえず英語のエッセイを早めにいけるとこまで行こう……。

あと実験的に、来週から就寝時間と起床時間を早めて朝の時間を有効活用してみる(これまたノリが小学生)

それから、来年度の準備も兼ねて、勉強(吸収というべきか)とか生活とかでの自分なりの色んな「ベタな手法」「型」みたいなのをある程度固めて、それをあまり抽象的でない形で保存しておきたい。

多分春休みの行動がとても変則的になるから、そういうことをしておいた方が4月がスムーズに始まる気がする。

ということで試行錯誤のひと月になりそうです。

.

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逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ?

今日はサンデーのコナンの感想でも書こうと思ったら休載だった。

どうしてくれるんだネタがなくなったじゃないか。

そういえばあれを書いてなかった。

先週Y大学の劇団の、『ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない』の公演を観に行った。

いわずとしれた、2ch発祥のコレの舞台化。

DSC_0046 
知らない人は上の写真にあるSTORYを見れば大体わかるかな。

映画版がそうであったように(観てないけど)、一応物語なので最後明るめの作品に仕上がっていたけれど、原作(?)のことを思うとなんともいえない気持ちに。


えっと、舞台は面白かったけど、とくに舞台版に限った話は書くつもりはなくて……(なぜ写真まで載せた)。
観てて改めて思ったこと。

僕らが耐えなきゃいけないことのラインってなんだろう?

劇中で主人公はプログラマとして過酷な環境で働かされる。

(現実の日本も多分実際にあんな状況が多いんでしょーね)

それでも彼は、最終的にこれが人生だとでも言うかのように「まだ頑張れるかもしれない」とレスを書き込む。

それは、そうしないと食っていけないという切実な問題でもあるかもしれない。

でも、それ以外に、「人間がんばらなきゃだめだ」みたいな精神論もあって、程度の問題はあれど一概に否定はできない。

この「程度の問題」が問題で、どの程度まで僕らは頑張らなきゃいけないのか、どこからが逃げて許されるレベルなのか、ということ。

もちろん、大人になれば誰も自分のことなんて見てくれないんだから、許すも許されるもないんだけど。

ある友人は、それは立場によって違うんじゃないかな、と言ってくれた。

それもそうだね。

今日も眠いのであまり話は広げない。

でもなんでこんなこと書いたかって言うと、

僕は苦しいことをしないんじゃないだろうか?

こういう自覚がわりと幼い頃からあったからだ。

幸いにも僕は学生の本分である「勉強」が、まぁ大雑把にいって「好き」だったし、できたから好きだったのか好きだからできたのかはわからないにしても、勉強は「できる」方でもあったから、大抵「苦しいことから逃げ」ながらもとりあえず生活ができた。
どうしても嫌なことがあると、それを好きなことに結びつける方向の発想力だけが伸びていった。(例、読書感想文への対応の仕方。)

思えば僕は「嫌なこと」を乗り越えたといえるほどの経験がない。

受験はきつかったけれど、受験勉強自体は好きだったので、本当の意味での逃げたい苦痛ではなかったかもしれない。

大学に入ってからは、ひょんなことからある部に入ったけれど、忙しさに加えて、どうしてだかそこにいることが耐えられなくなってやめた。

まぁそれはしょせん部活だサークルだって話だから、「逃げていい」部類の話ではあるんだけど、じゃあどこまで逃げていいのか、それでいいのか、みたいなことをよく思うようになった。

大学そのものにしたって 課題を出さなかったり気づいたら授業に出てなかったりみたいなことをどんどんやるようになるにつれて、「あー結局、もしかして僕って、自分の嫌だと思ってることをやるってことができないんじゃないか?」とか考えることが増えた。

あぁ。

某先輩も、この大学はわりと自分の自由になんでもできちゃうから、他のところの人と接する場でもないとそういう考えしかできなくなっちゃうみたいなこと言っていたけど。

うん、まぁ、確かに、逃げられる状況だとどんどん逃げるよね。

ふと、『もしドラ』著者の岩崎夏海さんが講演会で話していたことを思い出す。

・大人になると、合理的な考えで突破できないような世知辛い世界がそこにある。

幸せがデフォルトじゃないんですよ。子供時代にそう刷り込まれているけれど。

・幸せであるべきだ、恵まれているべきだ、と考えるのをやめればいい。

死んでもいいやと思って、虫けらとして飄々と生きるんです、それこそ自由

そんな感じの内容。

彼曰く、そうでもしないと生きられない世界がどうやらあるらしい。

俗っぽく言えば「世間は冷たい」みたいなことを最初に話した上での一連のこの話だった。

仮にそうなら、僕はそんなところを流れるように流されることができるんだろうか?

だめだまとまらない。

眠い。

寝た方がいいかな……。

あ、そういえば今日はきゃりーぱみゅぱみゅ(文字で打ってさえ噛みそうで緊張するなぁ)の「ふりそでーしょん」が入ったCDが発売の日だったような。

これを聴くまで彼女が同い年だとは知らなかった。

(タイトルからもわかるようにこの冬成人で、昨日がちょうど誕生日だったらしい)

しかし、あれだな、同い年だとわかった途端「あー頑張ってるんだな」って目で見てしまう。

だってあんな同級生いたらめっちゃ応援するでしょ。

いやファンとして応援するかは別としてね。

芸術家でも学者でも野球選手でもなんでもそうだろうけど、何かを究めようと思ったら絶対嫌なことから逃げてたりできない。

たぶん僕はその勇気がないからつまみ食いして時間を過ごすんだろうと思う。

うーん、しかし大人になったら関係なく嫌なことは迫ってくるらしいし……?

そんなこと考えるのも嫌だから、今日は寝てしまおう。

.

オモシロイアニメダトオモウヨ

昨日さらさら書けたのって少し文体を変えたからっても一因か?と思った。

だから今日も少し違う雰囲気で書いてみよう。

 

眠いので短くする(つまり適当なところでぶつ切りにされるだろう)。

 

友達の家に泊まった時に録画してあった「たまこまーけっと」の1~3話を見せてもらって、その翌日ぐらいにこの記事を見かけた。

あーあーあー確かに「面白いけど、何もひっかからないな~」という感想もってたので、ところどころ「ですよねー」と思うところもあった。

まぁ、「うざい」とは思わなかった。

でもなんか「何もひっかからないなー」とは思った。

 

……あ、せっかく僕に見せてくれた友達のために書いておくと、普通に面白かったよ。うん。そこんとこは大丈夫だよ。

 

ま、もちろん僕が日常のほのぼの系のアニメはそれほど関心がないって言えばそれまでなんだけど。

それでもね、ここまでね、完成度の高い作品(絵、脚本の展開、セリフ回し、えとせとら)なのに、何も思わないってのはすごい。

逆か、何も思わないのに、ハイクオリティで粗が見つけられないからすごい、か。

『クールなあの子にあっちっち』なんか、タイトル見ただけで話の展開全部読めるし、実際その通りだったけど、どこにもツッコミどころがない。

すごい。

 

僕が作る立場だったなら、えっとつまり友達とつくった某映画とかを想定していってるけど、クオリティがひどいことがわかってるからこそ色々変わったことをする。

一番手っ取り早いのは脚本をミステリー仕立てサスペンス仕立てにでもして、謎がとけていく話にする。

あらゆる面で色々つっこみどころ満載でも、まぁ見てるときはその謎に興味もってもらえるかもしれない。

それで乗り切る。

あとは本編に直接関係ない小ネタでも使うとか。

 

ひっくり返すと、ベタなものを作るってすごく勇気がいるし、やってのけたらかなりのもん。

 

もちろん、ベタゆえに安易に評価されちゃうこともある。

例えば中身のすっからかんな歌を聞いて、その汎用性の高さゆえに「すごい共感した~~~><」とか言ってしまう人がいるってことね。

(冷たく書いてるけど僕も影響されてしまったりするので人のこと言えない)

でもこのアニメはそういうのでもない。

別に心に刺さるアニメじゃない。

全然ない。

だけど、「どうだった?」って聞かれたら「面白いアニメだと思うよ」ってなる。

 

不気味だ。

 

寝よう。

.

初・思いつくままに書いた記事。(中身ないやんというツッコミはナシ)

昨日、レポートのようなものをやっていて、というか、始めずにうだうだしていて、結局徹夜してしまった。ゆえにとても眠い。眠くなくても寝ないと明日やばいだろうな、みたいな状態。(28日付の記事にはするけど今日付が変わったぐらいです)

だけど課題をちゃんとやるとは思っていなかったので、無事提出できてなんだか気分が良い。

その内容は惨憺たるものだったけれど、例えば最初の学期に書いた日本文学の期末レポートとかに比べればよほど自分のペースで自分の書きたいもの書けた。

自己満足で終えていいのかという話でもあるけど、自己満足も大事な要素だよね。

なんかすごく低レベルな話になってしまっているけど、それでもなんか精神衛生が良いというのは素敵なものだね、うん。

つまりは結局真面目にやれということなのかそうなのか……。

「ノッている」ので、かつてないほどにさらさら”思いつくままに記事を書く”という作業を今している。

今までも「思いつくままに」とか銘打ってるときはあったけど、一応「何を書くか」ぐらいは決めないと指が動かなかった。

今日は本当にカタカタ勝手にタイプしている。

それぐらい気分が良い、ということ。

こういう日の言葉も残しておかないとな。

だって普段堅苦しい動きしかしてないみたいにあとから見えたら嫌じゃんか。
という説明を入れてこの記事を正当化してみる。

明日はひとコマだけど寝ておいた方がいいだろう。
本当は今も読みたい本とか見たいブログとか考えたらキリがないのだけど。

好循環は断ち切らないようにしよう。

ってことで寝よう。

そうだ、明日こそこないだ来た手紙の返事書こう。

色々考えているうちに忙しい時期に突入して手が回らなかったのだった。

この記事、10分で書いちゃった。人間って不思議ね。

やっと、あの日の続きに進めたんだね。;四元数を知った日

十万桁まで計算されたπに人間性がないというのですか?
人間以外に誰がします?

(森博嗣『笑わない数学者』)



うまくまとまるかわからないんですが、ちょっと感動したことあったので気持ちが消えないうちに書いておきます。

つまりは単なる日記です。

たまたま『知のオデュッセイア』というエッセイ集をパラパラ読んでいて、四元数(quaternion)という言葉に出会いました。

その時点でも結構心にひっかかってたんですけど、そのとき読んでた科学史の本にも(数学史のとこで)この言葉が現れて、いいかげん気になったので調べてみました。

……うん。なんか予想以上に面白い

いや、存在自体 今日が初めて知ったので、こいつが一体なにものなのかどう動くのかとかまださっぱりわからないんですけど、そもそもの説明だけでわくわくします。

手書きの方が楽なので写真で↓ 

quaternion

「(´・ω・`)知らんがな」って言わずに、高校数学やったことある人はちょっと聞いてください。

あ、下の方の添え字とかそんな真面目に見なくていいですから。

これ見て「あ、これってアレに似てる……」って思いませんか?

そう、複素数です。

a+bi」って表せる数です。

あれは2乗して(-1)になる数を考えて……つまりi^2=-1ってのが先にありきなイメージ(知らないけどたぶん歴史的にもそこが出発点なんじゃないのかな?)ですけど、↓こんな風にも書くことができますよね?

複素数とは、a+bi (aとbは実数) に、次によって和と積が与えられたもの

和: (a+bi)+(c+di)=(a+c)+(b+d)i

積: (a+bi)(c+di)=(ac-bd)+(bc+ad)i


これって、別に「i^2=-1」ってことを言おうが言うまいがどうでもいいんですよ。

これだけで定義できてしまう。


前々からちょっと疑問だったんです。

物理学とか、実際に存在するモノの世界で虚数/複素数が使われるという話をきいて、「え、なんで虚数がでてくるの?存在しないんじゃないの??」と。

でも違ったみたいです。

まず和と積を上のように定義したら、たまたま「今まで自分たちが使っていた整数でいうと、iって(-1)の平方根ってことになるね」ってなっちゃっただけで、ホントは和と積のルールがそうなってる数の世界を扱うのが本質だったんですね。

それが複素数だったようです。

僕らが普段使ってるような数字って、抽象的なようで実はわりと具体的なんだなってことが感覚として少しわかりました。


うーん、説明が下手であまり伝わりそうにない書き方になってしまった……。

ともかくそのことに四元数の説明(上の写真)を見てようやく気づいたわけです。

まずこれで感動して電車の中でニヤニヤしてました。


誤解を恐れずにいっちゃうなら、複素数が2つだったとこを4つにしてみたバージョンが四元数なんじゃないのかなと思います。

だからこそ四元数が現れて初めて複素数の位置づけに思い当たったわけで。

僕がはじめて「虚数」を知ったのは、確か小川洋子の『博士の愛した数式』で、そのときも随分わくわくしたのを覚えています。

そして、それからのちに実際に学校で虚数や複素数を習っていたときは、「ここで終わりなのか!?何かこの話に続きは出てこないのか!?」と変な夢(?)を捨てきれずにいたような気がしますが、ここへきて「ついに先へ進めた!!」という快感を味わえました。

何だろう、大好きなシリーズ物の続編が数年ぶりに出版されたときのような嬉しさというか。

もしかしたらそれでこんなに感動したのかもしれないですね。


……とにかく、感動した!!ってことが言いたかったため最低限しか書いてないので、言いたいこと伝わってるのかよくわかんないですが、とりあえず、こっからさき四元数がどんな面白い世界を見せてくれるのかが楽しみです。(強引にまとめた)

わくわく。


ちなみに四元数にもりi^2=-1みたいな法則はあって、↓こんなんです。

ij=k jk=i ki=j

ji=-k kj=-i ik=-j

i^2=j^2=k^2=-1

これ見て一番わくわくしたのはJKイコール愛 最後の行ですね。

平方して(-1)になる数がひとつじゃない……って時点でもうこの数の世界って違う世界なんだなっ感じがします。

まぁどう違うとか全然わかんないけど、でもすごくどきどきします。

あと、二つの掛け算の順番を入れ替えると符号が変わってますね。

非可換ってやつですね。

あ、三元数ってのは存在しないそうです。

そこらへんもすごく面白そう。

数学面白いなぁ。

.

あなたに追いつきたいんだよ言わせんな恥ずかしい

できるようになってからやろうと考えてしまう人もいますが、

その人はたぶん、

一生それをせずに済ませてしまうのかもしれません。

(石井ゆかり『薔薇色の鳥の本』)



テーマ(デザイン)をころころ変えているけどとりあえずこれで打ち止めかな?

変更によって過去の記事が読みにくくなっている可能性あるから読む人がいたらごめんなさい。いないか。



今日は特定のことについての記事というより、自分の状況とやりたいことをいま一度確認するようなだらだらした文章を書いてみる。


こないだも書いたように、僕が勉強している理由のひとつは人と話したいからだと思う。

自分と近い距離(たとえば世代とか)にいながらなにかの話(社会の話、数学の話、哲学の話、外国の話、政治の話、人間の話、えとせとら)について自分の言葉で話しているのを見かけると、キラキラした目で見てしまう。

次の段階として、「一緒にその話題でしゃべりたい」と思ってしまう。

リアルでもネットでも過去に実際にこう思った経験はたくさんあるし、これから先もきっとそういう場面に出会うだろう。

でも今の僕は、そういった人たちと話せるような下地をもっていない

守備範囲が狭いどころか、特定の分野に絞っても何もしゃべれそうにない。

だから、いつかやってくるその日のために引き出しを増やしておこうとしてる。

きれーごとちっくに書くならこんな感じだ。


美談っぽさをさらに高めるなら、憧れ、だと思う。

過去をふりかえってみても、普段ぐずな僕を行動に駆り立ててるものの正体が尊敬や憧憬であることはよくあった。

過去の美化である可能性もゼロではないけれど、僕が受験生以前も英語だけは真面目にやっていたのは、憧れていた人が英語の勉強に励んでいたからだったと思う。

続いたのは楽しかったからだろうけど、動機としてはたぶんそれが大きかった。

結果的に僕はそのおかげで模試の点なんかも英語だけわりと早い段階で安定したし、語彙とかは高校生にしてはわりと豊富だったんじゃないかな。

(もっとも大学入った今となっては、周りのみんなが自分より遥かに英語ができるから、こんなこと書くのもためらわれる)


受験生だった頃に某国立大学を志望していたのも、最初は何となくだったけれど、そこを受ける予定の受験生や在学生たちの吐き出す言葉を(主にネット上で)たくさん見聞きして、「あぁこういう人たちと同じところに通って、話がしたい、議論したい」と感じて本気で目指すことに決めたのだった。

受験勉強自体も、ひたむきに努力している人たちが周りに沢山いたからこそ続けられたと本気で思っている。

まぁ、結局受からなかったのでこれについては何とも言えないけれど。


いま諸々勉強してるのも、きっと色んな人への憧れが強いんだろうなと思う。


そういえば黒田龍之助さんが、外国語を学んでる学生は外国語がカッコいいと信じているから勉強してるんだ!というようなことを書いていた。

高校生や大学生なんて、結局はカッコいいことしかやらない。口ではどんなに立派なことをいっても、要するにこれである。

ただし何がカッコいいかは人によって違う。ある人は筋肉をつけることにカッコよさを感じる。べつの人にはギターが演奏できることがなによりカッコいい。ほかにも絵を描いたり、将棋を指したり、ボランティアに参加したり、カッコよさは実にさまざまだ。それぞれが自分のやってることをカッコいいと信じている。そうでなかったらやるわけないし、やったところで上達もしなければ、長続きもしない。

(黒田龍之助『外国語をはじめる前に』)

うんうん、そうなんだよね。

身も蓋もないけど、カッコいいことだからやってるんだよ。(外国語に限らず)


実際、ここ最近ベンキョウもどきが続いてる要因としては、単純にそうしてる時はかなり精神的に安定することに気付いたからというのが大きい。
どんな人でも学んでる自分は好きになれるからこんな時代にあっても自己肯定できて云々って斎藤孝さんも書いてたけど、ほんとそれ。
森博嗣の『封印再度』という小説の一節を借りていうなら、

学問をする自分にだけは幻滅したくなかった。たぶん、この道を選んだのは、それだけの動機だろう。


余談、今後の課題。

楽しいからやってるにしても、辛いことを100%避けていては、大した力にはならない。

スポーツの練習とかを引き合いに出すまでもなくわかりきったことではあるんだけど、大学生という身分であまりに自由にやってると、「快くないことを自分に続けさせる」ことが予想以上に難しい。

これをどうするかが今の考えどころだったりする。

僕は人一倍いやなことから逃げる性格だという自覚はあるしなぁ。

ここまででだいぶ長くなってるのでこの話はまた別の機会に回すけれど、ホントどうしたもんかねぇ。

.

「る」の挿入がこんなに大変だったとは; 雪だま→雪だるま

頭を使う小利口者は、

考えることが多すぎて_

すべてを見渡せる頂上へは_

たどり着くことができないのだそうよ。

(飯田晴子『パナ・インサの冒険』)



昨日は大学で友達と雪だるまを作った。
今日もまだ溶けずに残ってた。

正確に言うと、結局スノーマンはならなかったんだけど、雪玉を大きくして行って最終的に知性を持った生き物らしきものをつくったのでとりあえず雪だるまって書いておく。

アニメとかでよく雪玉ころころやって巨大な球にしてるシーンがあるけど、あれってかなり大変なんだね……。

まぁ、最初の方はいいよ?

テニスボールがサッカーボールになるぐらいは、まだ「おーどんどん大きくなっていくなぁ」ってなもん。

だけど直径がケーキを越えピザを越え(おなかすいてきた)、そのうち重くて持てなくなってホントに転がすしかなくなってきた辺りからがきつい。

全然大きくならない


もちろん雪がくっつく量は同じなんだろうけど、表面積がどんどん広くなっているので直径方向の増加が遅くなる。

雪だるま式に、なんて言い方があるけど、雪だるま式じゃ全然増えないぞ。


割合で考えるとなんかもう気が遠くなるほどスローペースになってる。

(たとえば、最初なら「直径を倍にする」なんて一瞬だけど、雪だるまの胴体サイズになると「直径を1割増しにする」でもかなり苦しい。嘘だと思ったら微分使って計算してください)
そういえば国取り系ゲームで、最初のステージをクリアして、捕る対象が最初の上位概念になって規模相当でかくなってるのに難易度が変わらないようなのがあるけど、あれおかしいよね。(意味が解らない人はスルーしてください)


んでこの話が
どこに繋がるかっていうと、勉強も似てるよなって。

よく知識は風船に例えられて、膨らませば膨らませるほど「知らないこと」が増えていくなんて言い方をする。

より正確にいうと、「既知と未知の境界線(風船の表面積)」が大きくなっていくって感じか。

これを雪だるま的考え方にあてはめると、どんどん風船の膨らみスピード(直径で計算した場合)が落ちていく。
未知の世界の入り口が多すぎて回りきれない」状態になる。


ま、例えるまでもなく当たり前の話。

小学校低学年の頃「こくご」「さんすう」「せいかつ」だったものは、中学で国数理社になっててさらに英語が追加される。

高校ではそれが「現代文」「古文」「漢文」「数学」「英語」「化学」「物理」「生物」「地学」「日本史」「世界史」「地理」「政治経済」「倫理」etcになり……って高校の時点でギリギリだな。

捨てたくなくても時間割上あるいは受験システムの都合上ここで何かを切ることになる。

ウチの高校は地学は選択できなかったし、僕は生物はⅠの途中までの記憶しかない。(メンデルの法則なにそれ)

「開国シテクダサイヨォ」以前の日本の歴史は中学レベルの知識で止まっているし、地理はかなり悲惨な状況。

それでも、最大限の科目のリストラで抑えて、かなりの範囲の分野を高校生は勉強することになる。

だからね、高校生って結構すごいことやってるんだよ。

あの分量を小中学生と変わらないスピードを維持して頭に入れてるわけだから。

おまけに学んでることはどれも、マスターすればそこそこ自慢できる『常識』の詰め合わせときた。

(自慢していいはず。たとえば入試で地歴を使った勢には僕は今後その方面で勝てる気がしない)


それを越えた勉強はどうだろう。

もうあとは大学生にしろ社会人にしろ趣味の範囲になると思うんだけど、本当の意味で「何も切らずに進む」のは普通の人にはほぼ不可能に近い
そんなこと当たり前だろうが、と言われるかもしれないけれど、正直なところ最近まで僕は実感としてわかってなかった。

なんだろう、理屈としてはわかってたけど、その圧倒的さを肌で感じてなかったというのか。

成人式むかえても「学部どころか文理も決まってません テヘ」とか言ってるのもそろそろ怖い。
あれこれつまみ食いしてたら何も最後まで行けないよ~」とかそんなのんきな話ではなく、「全部見てたら初歩すら終わらない」感じだ。

そういえば高校の「倫理」は浪人時にちゃちゃっとやった程度だったけど、いまは哲学たのしぃ~~(゜∀゜)社会学たのしぃ~~(゜∀゜)人類学楽しぃ~~(゜∀゜)アヒャヒャヒャhy…削るどころか、どんどん増えてる。あれ?あれれ?


まぁ、最後に真面目なことをいうと、『まだ捨ててない、捨てたくない』とかモゴモゴいってるわけだけど、まぁ実際問題色々無茶なので、あとで振り返ったら「あーあそこであれを捨ててるんだな」みたいなことになるんだと思う。

(そういえば化学とか物理は別にやめようと思ってやめた気はないけど大学に入ってからまったく触れていないなー)

そりゃー気楽でいいや~。
でもせめて 人よりは時間かけて雪玉ころがしたい。

がんばろ。
.

 

大人について子供じみたことを書いてみる

そう焦るな。
誰だって、嫌でも大人になるものだ。
大きくなってしまえばもう小さくはなれないぞ。
今しかできないことをやっておけ、
今のうちにな。

(妹尾ゆふ子『パレドゥレーヌ』)


この休みは、全国各地で成人式が行われていた。

僕は2日に高校で成人式を済ませていたから、連休は部屋でのんびりしてたけれど、ビッグマックをただでもらえたので「新成人」っぽい実感があった。(そんなことで実感するなよ)

しかし、大雪の中ひたすらマクドナルドに向うのは若干イニシエーションじみていたけど当然そんなことで成人になった感覚がわかるわけでもない。(そもそもそういう企画ではない)


大人と子供の違い
ってなんだろう?

と恐ろしくベタなことを考えてみる。


思うに、子供って、やらなきゃいけないことが割と決められていて、大枠として「何をするか」にそれほど選択権がない。

その代わり、半強制だからこそ、自分がそれをすることを疑問視して余計なエネルギーを使うことは少ない。

そして、やったことは見ててもらえる。評価までしてもらえる。努力が形になる。
僕がいま特に想定してるのは小中高の学校だけど。

国語の時間の朗読。新年度の部活紹介。演劇。美術で書いた油絵。自己紹介。卒業制作。夏休みの読書感想文。卒業する先輩に贈る動画。ディベート。生徒総会。英語暗唱大会。合宿の演芸大会。作文。総合学習でのグループ発表。体育祭。授業中のツッコミ。文化祭のクラス展示。バンド。歌。ダンス。演劇。コント。司会。合唱祭。エンディングの動画。「高校生として」の奉仕活動。高校〇〇。先生へのサプライズ。勉強を教え合う中間試験前の放課後。部活。同好会。詩。受験勉強。卒業式の答辞。

枠が決められているから、自分を表現する場としてそれを最大限使える。

自分で決めたわけじゃないから、こんなことやってていいのかな?」なんて考えなくても済む

同じ枠をみんな使うから、個性(笑)を出しやすい

受験なんてその最後にして最強の、子供らしい”行事”だったかもしれない。

テレビとか全国の名も知らない人たちとかから「頑張れ」と励まされる異様なイベントだった。

あ、最後じゃないか。
成人式こそ最後の子供の行事かもしれない。
成人式という枠は決まってて、一部の馬鹿が暴れたりするとそれがコンテンツになって当たり前のように全国ニュースになったりしてしまうあたり、まさに上に書いたような話そのものだと思うんだけど。

まぁこれはあまりいい意味ではない。
なんか話が脱線してきたのでこのへんにしておく。


で、僕は人並み以上にそういう「子供」の環境から離れようとしないところがあった気がする。

高校に演劇部を創ろうと活動していた時、「そんなに演劇やりたいなら(学校外のアマチュアの)劇団に入ったらいいのに」と言われたことがあったけど、僕にとってそんなコトにはなんの意味もなかった。

僕は、学校という枠の中で、「高校演劇」をやりたかったから。

身も蓋もないことを言えば、その枠内で評価もしてもらいたかった。

子供でいたかったのだ。

(さらにいうなら、結果として、「同好会を作ろうと必死になっている」という状態自体が、僕の欲求の一部を満たしていたのかもしれないと今なら思う)


大人になるとこうはいかない。

まず何をするか、という枠自体が各自に委ねられている

それは究極の”自由”ではあるけれども、それゆえにまず他人はその枠すら見てくれない

自分はこの枠を使いますということすら自分でしっかり決めなくてはならない。

それが正しいかどうかなんて答えはないし、誰かがそれに触れてくれることもまずない。

そのくせ、共通の枠をもつ人はみんな、その枠を自ら選んでいるために、そう簡単に道を譲ってはくれない。

基本的に他人に認められることなんかないのに、その世界での戦いは熾烈。


子供と大人。田舎と都会の構図に似ているかもしれない。

田舎では、というか僕がティーンエイジを過ごした某県のようなところでは、ちょっと変わったことをするだけで、ちやほやされやすい。

「何かをする」ことを当たり前のように見ていてもらえるの環境がある。

これについては何か考えがまとまったらいつか書きたい。


ともかく、時間は待ってくれない。

どれだけ大人になりたくないと思っていても、気づけば、誰も自分のことを見ていない状態にもうほとんどなっている。

それは自覚しておかないと、痛い目にあう。(痛々しいという意味で)

オチのない話になったけど睡眠不足なのでこのへんで切り上げて寝よ。。。

.

人と語るためと未知に浸るためにここにいる

とても能天気なことだけれど、

ただ必死で生きていることで、

みんなに、世界に .

なにかを返していけるような気がしていた。

(よしもとばなな『スウィート・ヒアアフター』)



某友人とちゃんぽんを食べて色々話した日。

ちゃんぽんは外食でも野菜が食べられるからいいね~。



昨年は「最近なにやってるの」系の質問をされるたびにダメージを負っていたけれど、このところはとりえあず「一応自分なりに色々勉強してるかな~」ぐらいは言えるので、少し気が楽。(ただこの答えをするかどうかは、かなり相手による)

今日は直接そう訊かれて話が始まったわけではなかったけど、ともかく途中で勉強の話になって、そういうことを言ったところ、よく勉強が続くね~みたいなことを言われた。

彼は、自分が勉強しなくなったのは、(たとえば高校生のように)人と勉強の話をする機会が少ないからかもしれないと話してくれた。


あとになって、帰りの電車を待つホームで、それは僕だってそうだよなぁ とぼんやり考えた。


僕は他人とコミュニケーションをとるのが得意な方ではないし、そのくせつながっていたい人はわりと存在する。

だからその溝を埋めるための何かを身につけておきたいと思ってしまう。


いや、順番としては逆かな。

そういう形で人に関わりたい、のかもしれない。


哲学的な話をしてるときに少しでも理解できるようになりたい。

理系の人の話にもついていきたい。

小説の趣味が合う人と最近読んだ本について語り合いたい。

ぜいたくいうなら、歴史が好きな人と歴史の話を、文学が好きな人と文学の話を、数学が好きな人と数学の話がしたい。

最近こんなことやってんだよね、ってお土産話をしたい。

ある方のブログのこの記事にある「共通の話題を多く深く持っていれば持っているほど人と円滑に話せることは紛れもなく真ですし、他にやることもない気がします。」という表現が、長いあいだ僕の中に妙に染みついて離れない。

他にやることもない気がします

まさにそういうことなんだろうな。

今のところそれ(人と話す)以外にやることがない。

そういえば「人は交換する生き物だ」みたいな考え方があるけれど、情報を交換するという作業の反復にこれだけ価値や意味をぺたぺたくっつけている人間ってのもすごく素敵だと思う。



まぁ、そんな理屈抜きにしても、この知らないコトに浸っている状況が心地良いのもある。

(ただ、これも「うまくやらないと」のっかれない感覚だと最近気付いた。現に東京に戻ってきてからの数日間は気力がまったくなくなって焦った)


1年くらい前の自分が

なんかこう、どこを向いても知らないことばかりという環境(いや、正確にはミッシングリンク的に『知っていること』が散らばっている状態)の中で、つまみ食いのようにほいほい色んな知識を入れていくあの感覚がすごくほしい

と書き残していたのをこないだ見つけた。


当時の僕はもちろん純然たる受験生だったから、限られたスペースの中をできる限り食べ残しがないように喰い尽くすみたいなベンキョウを強いられていた。

それはそれで今思うと(というか当時も自覚していたけれど)終わりが全然来ないから面白いことなのだけれど、さすがにそれだけじゃ疲れたのか、「あとどこにやり残しがあるんだ?みたいに探さずとも、周りに未知のモノが食べきれないほど広がってる世界」に恋焦がれていた。

そういう世界があることはもう十分わかっていたから。


そして今、それに近い状況に自分はいると思う。

だからまぁ、活かさないとね。

.

最後に残った道しるべ

この学校は、好きですか

わたしはとってもとっても好きです。

でも、なにもかも……変わらずにはいられないです。

楽しいこととか、うれしいこととか、ぜんぶ。

ぜんぶ、変わらずにはいられないです。

それでも、この場所が好きでいられますか。

(『CLANNAD』<アニメ>)



あけましておめでとうございます。いや、ございました?

ともかく新年最初の記事。

今年初の記事は、早い時期に1月2日のことを中心にしっかりしたものを書くつもりだったのだけれど、かえってそれを意識してしまって何も書けないまま1月上旬が終わってしまい、さすがにのばしすぎだと思ったので何か書いておく。



格好つけた理屈や表現をとりあえず取っ払って書いてしまうと、ただただシンプルに、この年末年始は幸せな時間だった。


年末は、最初の方のことはブログにも書いたかな、あとはしおわらなかった某映画の撮影を(中高時代の友人たちと)強行し、みんなでレコ大を見ながら鍋をつつき、同窓会の進行の打ち合わせをしたり。

今日冒頭でもすでに一度書いた「1月2日」は、以前も書いた気がするけれど僕にとってずっと重要な日で、終わってみてもやはり重要な日だった。
中高時代の同級生が集まって行われた成人式と同窓会。
会いたい人全員に一度に会える日なんて、もう最後じゃないのかな……なんてことをぼんやり思いつつ過ごしていた。


毎日、顔ぶれは違うけれど、中高時代の同級生と当たり前のように顔を合わせているのが、なんだか不思議なような、不思議じゃないような。
きっと高校卒業して以来、こんなにも当時(中高時代)に近い感覚で過ごした時間はなかったんじゃないか。
昨日も会い、今日も会って、そして明日の話をする。
そんな時の流れのなかで過ごすのは久しぶりで。
単発の番外編や劇場版みたいな再会じゃなく、長く続くストーリーの一部分だけを切り取ってきたみたいな。
日常。
だからなのか、最後に大勢で会った夜も、まるで翌日もこんな日常が続くんじゃないかと錯覚するような あっさりとした別れだけをして家路についたのを覚えている。


……悔しいなぁ、あんなにいろんなことを思っていろんなことを考えた数日間だったのに、もう言葉が出てこない。
仕方ないので十日前に少しだけ書き残していた言葉をそのまま書き写しておく。

2013年1月2日。

無意識のうちに僕はココを最後のよりどころとして生きてきたかもしれない。

もうその日は終わってしまったのだから、あとは覚悟を決めて自分の道を見つけて歩くしかない。


もちろんそんな簡単に割り切れる話なわけはないんだ。

ここまでの2年間なり7年間なりで積み重ねてきた感情がそんなすぐに整理できるわけはないんだ。

でも、それでも、もう僕は進まなきゃいけないんだろうなって、そんな当たり前のことをこれでもかというぐらいに色んな人が伝えてくれた気がする


本当に 本当に 本当に 本当に 本当に、僕はこの学校が大好きだったんだなぁ


だけど、いつまでもそれにすがってちゃぁだめなんだよな。

いつになったらそんなことを涙なしで言える日が来るのやらわかんないけど、それでもそれを目指さなきゃいけないんだよな。


リアルな感触はもう、消えてしまった。
上のようなことを切実に感じてた、ということは信じられるけれど、もうその箱は閉じてる。


ひとつだけ言えそうなことをむりやり綴っておくと、たぶん、僕があの数年間のことに固執するのはもうアイデンティティみたいなもので、今さらそれをやめることはできそうにないということ。
今回のことで何かしらのケリはついたんだけど、どうケリがついたのかも記憶が曖昧。


ぐちゃぐちゃだけど、書いておかないと今まだある感覚すらも変質してしまいそうだったので、半ば手遅れだけど無理やり書いてみた。
明日、いつも話の弾む友人に会うので、(関連する話をするかどうかわからないけれど)なにか考えが整理できたらまた書くかもしれない。

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