ここは、田舎から出てきたどこーにでもいそうな学生≪ちくわ≫が、日常に流れているあれやこれやを拾い集めて、ある日はすりつぶし、ある日はこねまわし、ひそやかに物語に練りなおしてゆく――そんな場所なのです。

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二月は逃げるというけれど [2013-02]

二月は逃げない。逃げるのは、いつも自分だ。


……とかわけのわからないことぽんっと書いてこんばんは。

飽きなかったので今月もひと月を振り返ります~。

きっかり四週間ですね。

眠いので先月と違ってかなり雑に羅列するだけになりそうです。

最初の週末は友達の家に泊まりに行って図書館戦争を見て「なんか知ってる場所が舞台になりすぎだぞ……?」とあぁ僕は東京にきたんだなぁと改めて思い、エッセイ書かなきゃって鬱々としてたらコンビニでバイトしてる友人が恵方巻きわけてくれて(((o(*゚▽゚*)o)))←こんなかんじに。

あとは以下、書かなければならないえっせいに追われる追われるけど、書かないで、なんか、逃げてました。はい。

歴史学の卒論発表会に行った、記事にも書きましたが面白かったです。

具だくさんな鍋を作ってほっこりしました。あれ、そういえばあれから(ご飯炊く以外に)自炊してないような……?それでお金が厳しくなったのか……。

最初に書いた友達の家にまた泊まりに行って(頻度高いww)『雲の向こう 約束の場所』を見ました。うーん、ちょっと不完全燃焼でしたが、こういう映画は頭の片隅にひっかけておくとある日突然スパークするやもしれません。

その後二週間はエッセイやらプレゼンやらの準備のために徹夜したりして、徹夜してるのに何故か数学ガールを読んではまって……英語のプレゼンとかなんだとかを2つ3つなんとか消化して……そう、とにかく徹夜率が高かったです。色々おかしい。

バレンタインの翌日に「恵まれない男子のために作ったチョコ」を男友達からもらったり、大学で空いてる教室使って予備校ごっことかしたり謎だけどそれなりに楽しい生活を送っていました(?)。

「全国9大学から集まった学生が高校から大学にかけての教育について語る会」という名の……色んな人にようやく会えたねという感じの会合があり(説明になってない)、あぁ僕は、受験を終えて、東京に来たんだな……とふと思いました。

ひょんなことからスウェーデン語を勉強することになり

授業最終日は記号論の期末試験もありエッセイの提出もあり、まぁなんとか必死で終わらせて提出し、その日は大学の友達の家に泊まって騒いで(?)いました。

翌朝は早稲田の人たちとラーメン食べに行きました、久々に手放しでめっちゃおいしい!といえるラーメンでした。

前後しますがおとといは友達と天下一品を初めて食べて、ドロドロ具合に涙しました。(褒めてる)

話を戻して……その後国公立の前期入試の日が始まり、なんだか一年前を思い出して悶々としていました。

あぁ、受験終えて東京きたんだなぁと……あ、これさっきにも最初の方にも書きましたね。なんだか今月は去年から見た今を意識してセンチメンタルになる月だったようです。

ネガティブではないですが。

おとといは数学の質問会行って友達と京大や東大の数学の問題解いたりしてました。今思えばちゃんとここで大学の微積の勉強をしておくべきでした!!!!

昨日は朝とーふる受けて、夜は友達にすしをおごってもらってました。

で、今日、微積の期末試験でしたが……まずい……これは……危うい……。しばらく忘れよう。うん。

とにもかくにも課題のエッセイから逃げ続けた2月でした。

色々一年分の反省点がわかりましたね。

ひとつだけ書くならとにかく地道な努力をしなくなってしまった、これをどうにかしたいです。どうすりゃいいんでしょうね。

来月は3月ですが完全に大学からはフリーです。色々移動する予定もあります。

ということで目標たてるにしても少し変則的になりますね。

でもまぁ、『やるべきことを後伸ばしにしない』をそのまま目標にしておきます。

それから『小さな努力をする』。

ついでに、目標とかじゃないけど最近さぼり気味になっていたので出納帳データをきちんと記録しよう……。

さて、何度も書きましたが今月は徹夜……というか深夜から夜明けにかけて起きていることが多く、ついったで荒ぶっていたら色んな人から釘をさされたり言葉をかけてもらったりしました(´・ω・`)

忘れないように、頂いた言葉のうち二つだけ残しておきます。

『特別なことしなくていいさ。 毎日一色ずつ、微妙に違う色たちを重ねるだけでいいと思う。』

 
『階段を下まで転がり落ちたっていいんだ。 一番最下層に戻るわけじゃないから、また元気が出てくれば嫌でも上りなおしてしまうんだって。』

 .

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旅に出よう 数が紡ぐ世界の果てまで

明日は数学(微積)の期末試験なので今さら勉強してます(手遅れ)

微積期末試験
なんか、長い間受験勉強で「知っている(はずの)知識を巧妙に組み合わせて、一見解けないように見える問題を解いてゆく」ということをずっとやっていたので、「新たな概念を知ることで(時には、覚えることで)問題を解いてゆく」という状況が少し不思議な感じです。

逆に言えば、新しく習ったことを知らないと(時には、覚えていないと)解けません。


そんななかで、一個一個辿ってたらキリがないので覚えてすむところは覚えましょう、みたいなラフな姿勢を教授がとることがあって、「おいおい一般の(大学の?)数学なのにそんな雑でいいのかよっ」と思ってましたが、なんとなくそこらへんの感覚もわかってきました。

それは、旅路のようなものだと思うのです。

旅にも色々あります。

家を出ててくてくと普段は行かないような道を散歩してみるというのも旅といえますし、各駅停車の電車に乗ってぼんやり景色を見ながらローカル線の端っこまで行くという旅もあるでしょう。

新幹線でびゅんっと東京から博多まで行くような人もいれば、飛行機でクロアチアに飛んでそのあとは現地では自分の足で歩くという旅行をする人もいます。

折り畳み自転車を持って電車に乗り、知らない街で降りて自転車を走らせるような旅もあるかもしれません。

どの部分を省略して、どの部分を景色を見ながら自分の足で歩くことにするか、というのは各自の自由ってことです。

もちろん最初から最後まで自分の足で歩ければそれに越したことはないのですが、日常生活に支障をきたさずに、徒歩で北海道から鹿児島まで行くというのは現実的にはほぼ不可能に近いです。

もうそれ自体がひとつの一大事業です。

それに、鹿児島まで辿り着いたとして、沖縄に泳いでいくのはもうほぼ不可能といっていいでしょう。

よほどの例外を除いて誰かが作ってくれた船を使うのが無難です。

時には、自分の家の周りで意外な発見をしたりもしますし、そもそも裏口から出るという新たな発想を思いついたり、秘密の地下道があかね丸まで繋がっていると気付いたりすることもあるかもしれません。

しかし、まぁ、初心者があまり頭を使わずにする旅は、とりあえずどこかまで高速で移動し、そこからゆっくり歩くというパターンが多いでしょう。

数学の勉強も同じで、僕らはさしあたって興味のない部分を省略します。

過去の数学者が証明を連ねて導いたのだから間違いはないだろうととりあえず信頼して駅から駅、空港から空港へとスキップします。

そしてその降り立った地点から冒険を始めてみたりするのです。

具体的には、小さなレベルで言えば公式ですね。

僕は三角関数の加法定理を使う時にその証明を意識してはいません。

証明しろと言われればできると思いますが(……ちょっと心配になってきた、できるかな……東大の入試で出たこともありますね)、必要が無いので普段はすっとばします。

高校数学程度であれば、大抵のことは「一度証明したから」スキップする、という建前ですが、もっと広い世界になると(自分自身では)一度も経験していないプロセスをスキップする必要がどうしてもでてくるのだと思います。

今学期の講義を担当していた教授も「全てのことを一般的な形にして厳密に書いている本って言うのは多分この世にない。どこかで信じきって先に進まないといけない」と言っていました。

だからこそ僕のような素人でも少し遠い世界の景色を見に行くことができるのです。

高校数学という枠が取り払われたことでできるようになったことのひとつは、多分そういう旅なのでしょう。


[蛇足]

この話で行けば、受験数学はさしずめ、「なんとなく知っている場所」にぽつんと放り出され、地図もコンパスもなしに別の「なんとなく知っている場所」にできるだけ早く安全に辿り着くゲーム、とでもいったところですかね?

ある教授が「受験勉強の数学楽しくなかったでしょ?」と言っていて、カチンと来たことがあるのですが……、そうですね、この話で言えば例えば「市ヶ谷駅と半蔵門駅って歩いて行ける距離だったのか!」とかそういうちょっとした発見をたくさんできるという楽しさとかがあると思います。

……特に先に繋がらないので、これについてはまたいつか何か思いついたら広げましょう。

あと記事タイトルは某ラノベをパクリました。

いまさら国語の授業で学んだこと(のひとつ)に思い当たる大学生

どんな形であれ、ノートをとりながら本を読むことが増えました。

わりとしっかりと見取り図としてのノートを書いていると、ふと中学や高校の国語の板書を思い出します。

あぁ、あれはそういうことをやらせたかったのか。

いつも「なんであんな簡単なことわざわざ書いてんだろ~」とか思っていたけれど。

これを教えたかったんですね、先生。

ぼーっと黒板写しながら女の子と下校する妄想とかしててごめんなさい。

そうえいば高一の頃、斎藤孝の『三色ボールペン情報活用術』を読んでから現代文の試験で線を引いて解けるようになってだいぶすっきりした記憶がありますが、(至極当たり前とはいえ)国語の授業でやることってきちんと本を読めるようにすることと裏表ですね。

だから、本を(すこし深く)読んでいると、国語のことを色々思い出します。

文章の要点を掴もうとすると、自然に、著者が手を替え品を替え同じことについて言っている部分(たとえば要約するなら無駄になるような部分)に気付くことになるのですが、そういやこれ、予備校の現代文の先生が少々極端に皮肉ってたなぁ(「『あらゆる』も『全部』も、同じやな!なくてもいいよな?」)、とか浮かんで来たりします。

ほんと、国語ってこれをやらせたかったのか

落ち着いて文章をじっと眺め、線を引き、関係を繋ぎ、考えを巡らせ、一読してわからないものを何度も読んでようやく新鮮な理解を得る。*

なんだ、いつぞや高校の先生が「文系クラスがだんだんダレてくるのは仕方ないんだ。理系はじっくり腰を据えて問題を考える機会が多いけど、文系はあまりその経験がないから、どうしてもそうなっちゃうんだな」みたいなことを言ったけれど、いやいやむしろ文系の方がじっくり取り組む姿勢を要求されているじゃなぁないですか。

人文科学の世界に浸りかけている今ならなおさらそう思います。

(もちろん、先生の言いたかった意味もわかるけれど。)

そう、例えばコレ(*)が入試問題という形をとれば、数学の問題とくのとまったく変わらないですね。

講義について思うこと

ところで、大学の授業には、講義と演習がある。語学の授業などは、広義の演習だろう。しかし、講義という授業形態が、私には疑問である。たとえば初期の帝大教授、芳賀矢一には、『国文学史十講』という本がある。これは大学で講義したものを本にまとめ、一般読者にも読めるようにしたものだ。今でも、セミナーブックスとか、「十二講」などとタイトルをつけた本があるが、そもそも芳賀の当時は、概説書とか入門書とかいうのもがない。ないから講義が意味を持つわけだし、もちろん今でも、教師の最新の研究成果を、学生の前で話すというなら、講義にも意味がある。ただし、そんな話をして理解してもらえるのは、一流大学だけだろう。

しかし、今のように、源氏物語入門だのシェイクスピア入門だの、そういう本が山ほどある時代には、学生にはまずそれを読ませればいいのだし、読んでわからなければ質問させればいいのである。もっとも、そういうものを読んで、どこが分からないか分かる学生がいるのも、一流大学だけだろう。そうなると、講義というのは意味がないのである。

――小谷野 敦『文学研究という不幸』


もちろん、少々極論すぎるとは思います。

人間耳から聞いた話は理解しやすいですし、色々な経験と一緒に記憶にしまわれるので定着もいいでしょうし、何よりもまず講義という形式は「それを聞かなければその存在にすら気づかなかったであろう概念」を知る機会の有力候補その1ですからね。

そういえば、今日駅でカップめんのサンプリングを行っていてカップめんが無料でもらえたり、大学での数学の質問会のときにTAの方から「処分したい要らない本」を何冊か譲ってもらえたりしました。

何が言いたいかというと日常生活はそういう偶然にあふれていて、講義はそれを半ば意図的に作り出すにはぴったりなのです。

とはいえ、この文章を読んで本当にそうだよなぁと思うことも多々あります。

僕の大学は、範囲としてはそれなりに幅広い分野の授業をとることができるのですが、○○学入門といった「その分野を学びたいなら最初にとらないといけない」クラスが割ととりづらい時間帯にあったります。

それでいて一年に一度しかないんですね。

あれこれやりたいならそれぐらい独学しろというのならいいのですが(実際するし)、現実問題それをとらないと発展したクラスが履修できないなどの制約があるものも時々あります。

うぅぅん、まどろっこしい。

数学など多少の例外はあるにしても、大学の講義をシステマティックに最適化(それこそ、予備校のように)するのは無理があると思います。

足りない部分はきちんとやる学生なら自分で頑張って補います。(byきちんとやってない学生!)

というか、多分講義がどういう形であってもそうせざるを得ないわけです。

だったら、中途半端に整えようとして柔軟性を失うのではなく、できるだけ様々なものに手を出しやすくするようにしてもらえると嬉しいのだけどなぁ……ともごもご。

まぁ、それを極めている大学だってあるわけで、自分で進む大学選んだのだから自己責任なんですけどね。


どこで読んだか忘れてしまったのですが、人文系は本を読んで独学した気になる勘違いさんが多くて云々~みたいな文章を読んだことがあります。

どうなんでしょう、これについてはまだ僕ははっきりとは何とも言えません。

ただ、純粋に内容についてのみ言えば、今のところ、読書で十分すぎるほどに補完できる気がします。

もちろん本を読むだけより、本でも読んで教授の言葉も聞いた方が理解が深まるのは当然のことです。

より偏りをなくし自分の気付かなかった世界に気付けるという別の側面からも講義は有用なはずです。

それでも、得られる情報そのものについては、本での独学もそれなりに可能だと思います。


少し話は逸れますが、どうインプットするにせよ今の僕に足りないのはそれを定着させるための『努力』です。

小中高なら宿題や小テストなんかで無意識のうちに強制されてやっていたようなレベルの練習だったり反復だったりですね。

やるべきことが”暗記”でなくなった分その必要性や到達度は不透明になっていますが、何の労力もなく何かを身につけるというのはなかなかできるものではない気がします。

そこを怠っているので何とも言えませんが、それができるだけの持続力・根気があれば、情報源が何であれそれなりの基礎は出来上がりそうです。

いや、その根気がなかなか大変なんですけどね。

強制されないというのは難しいです。

やりたいのにやりたくないという不思議。

頑張ります。


眠いだけじゃなくてなんだか体調がよくない気がするので……きれいにまとまるところまで行けずに終わってしまいますごめんなさい。

ともかく、もう少し講義の偶然性をこっちが利用できるようなしすてむに特化してくれたら嬉しいのになって思うのです。

それこそ、教授が自分の好きなことを延々話す時間があるだけでもだいぶ刺激になります。

基礎の講義は口で説明した方がわかりやすいことにだけ絞り、入門書や概説書読めばわかるようなことは学生が自分で勉強して、わからないところを質問する形にすればいいんです。

……不真面目な学生の僕が言っても説得力ないですねぇ。

どんな人にも楽しく読ませる、見事な布石;『数学ガール フェルマーの最終定理』

毎日ブログ書く!とか言いつつ次の日からさっそく書かずに寝るところだった(すでに日付変わって三時間くらい経ってるけど24日づけで投稿します)。

さて、なに書こう。

あぁ、そうそう、多くの友達からすすめられていた数学ガールをようやく最近読んでます。

数学ガール
大学の図書館にあった分を借りたので2冊目→4冊目という変則的な読み方をしているのですが、それほど支障はなさそうでした。
(いま、4冊目の半分くらいです)

それにしても、面白いです

色んな人がすすめるだけのことはありますね。

物語としても、数学の入門書としても、面白く読めます。

特に二冊目の『フェルマーの最終定理』の巻なんて、前半が楽しすぎてこないだ課題そっちのけで徹夜で読んでました。

この著者、伏線を張るのがうまい

数学って、一見関係ないいくつかの事柄が、あとで意外な形で繋がったりするのがとても面白いものですが、その感動を物語の中にうまく織り込んでくるんですよ。

作中のキャラクタが「あぁっ、これってあのときの!」と驚くと同時に、読者も同じ想いを感じられるつくりになってます。

そして、全体も面白ければ細部も面白い。

何となく知っている気になっていたようなことでも、登場人物の会話を通して改めて気づかされることが多々あります。

あぁっ、そういうことだったのか、と。

x³=1の三つの解{1,ω,ω²}が、複素平面上で正三角形になる、っていうのは予備校で友達からチラッと聞いたことがあったのですが、実際にその繋がりの説明を聞いて震えましたね。

まさかあれが群論の話に繋がっていたとは。

どうして 1→ω→ω²→1 1→ i →(-1)→(–i )→1 との類似に今まで気付きもしなかったんだろう。

気になった人は読んで見てください。

いや、気にならない人も、数学興味ない人にも、わりとおすすめできます、この本。

2冊目なんかどんどん読めます。

多分1冊目も面白いんじゃないかな、まだ読んでないですけど。

と、こんな感じで中途半端に(?)推薦したところで今日は寝ます。

は、る、や、す、み、だ!

お世辞にも全力を尽くしたとは言えない形とはいえ課題もきちんと出し切って、いよいよ一年目のすべての授業を無事(……?)終えました。

木曜→金曜 にかけて徹夜だったのと 金曜→土曜 にかけて友達の家に大勢で泊まったのと、その後も色々人に会って動いていたのとで、眠いです。

そんなわけで大学生活一年目のしっかりとした総括みたいなことをする気力もなく、春休みこんな感じにしようみたいなこと腰を据えて考える元気もないので、えぇと、短い(しかしまとまりのない)記事書いたらすぐ寝ます。

とりあえず結局、色んなものから逃げ続け、(逃げるにしても)どういう逃げ方が自分の納得いく逃げ方なのか最後まで結論を出さないままぐだぐだするみたいな反省点だらけの一年でした。

さしあたって……来年度の最初の学期にとる英語(論文作成)の授業関連は色々積極的にやります。
はい、今年度の話おわり。

SWEDISH


さて、春は時間のある限り色々やりたいことをやろうと思っているのだけれど、まず、ひょんなことからスウェーデン語を勉強することになりました

いまあるスウェーデン語に関する知識はゲルマン語派だから多少英語と縁がある~とかその程度だけです。。。

日本で学ぶテキストとしては『スウェーデン語文法』というスウェーデンの国旗っぽいカラーリングの本が定番のようです。

……が、わりと高いみたいなのでそれは来月あたりに買うことにして、とりあえず大学の図書館でわりかし新しい(少なくとも自分が生まれている時代に書かれた)本を何冊か借りて来ました。(写真はそれ)
どうなるのかわかりませんが楽しみです。

その他、思いだしがてら近いうちにやりたいこと箇条書きに……(忘れてるものがきっとある)


できるだけブログを毎日書く。

手紙の返事(やっと書ける!!)。

旅行→帰省の流れをもう少し細かく決める。

微積の期末試験に向けた勉強。

部屋の片付け。

今年度使ったプリントetc整理。

パソコン内の整理。

できるだけ自炊する。

本の山を崩していく。(Spring holiday is there to do this, isn’t it??)

古本屋廻る。

ネットで古本いくつか注文する。

“アメリカ”に関する本を探して多く読む。(春に受ける好きな教授のクラスのため予習として)

人類学史・社会学史・哲学史etcの勉強を再開。

ロシア語の勉強を少しだけ復活。

数論・群論で遊ぶのを継続。

英単語で遊ぶ。

世界史。

自分の書いたノート見直す。

実家にあるものをひっぱりだして整理。

もろもろの方法決め

ブログの方向性とか少し考える。

バイトのこと。

動画製作。

映画の仕上げ。

人と話す。

少し未来のことを考える。

時間を比較的有効活用する(したという満足を得る)。

寝る。

ないなら自分で作ればいいのよ!

先週、歴史学専攻の卒論発表会を覗きにいきました。

(それならさっさと記事書けよっていうね……。でもエッセイが……エッセイが……)

15分で書いた卒論について説明し(卒論の目次も併記されたレジュメがもらえた)、5分で質疑応答という流れで、5人分を聴きました。

近代イギリスにおけるスポーツについて。19世紀のUSにおける新聞について。などなど。

あー歴史学って、目のつけどころ場所次第で「素人が聞いて面白い」ものを色々書ける分野なのだなと改めて思いましたね。

なんとなくのイメージですが理学系の卒論なんかだとなかなかこうはいかないんじゃないでしょうか。

それを見つける発想力やセンス、きちんと調べきる根気があってこそでしょうけど。

イングランドにおける賭博規制についての卒論書いた人の話には特に色々驚きました。

こんな感じです。

英国では昔から賭博が行われていたけど、

取り締まりが行われたのは19世紀半ば(英国全盛期)

疑問

全盛期に、価値観の変化があったのでは?あったならどんな変化が?

調べよう

「英国の賭博について書かれた本や論文にあたっても

現代賭博の分析 や 文学的な研究 の『背景として』歴史に触れているだけで」

「賭博の歴史を扱った論文が見つかっても、

そもそも全体像がわからないから

どれくらい信頼していいかがわかんなかったんですね」

じゃあ私が、

賭博の歴史の全体像をできる限り明らかにしようかなと思って


なんだその流れは。Σ(゜゜

「まとまったものがないから私がまとめよう」……みたいな分野が実はあちこちにあるってことなんでしょう。

高校時代に振動発電(たとえばこんなの)の研究してる人のことをテレビで観た時に、「誰かが考え付きそうなことって、もうおおかた考え尽くされてるんじゃないかと思ってたけど、案外まだまだ僕ら世代が考える余地はあるのかもしれないな」と妙にわくわくしたのを覚えてますが、人文科学の場合も負けず劣らず、色んな所に意外な宝物が眠ってるみたいですね。

僕もいつかそういうのを自分で探し出して一生懸命になれたりするんだろうか?

ま、とりあえずは幅広く教養をつけよう……。

その前にエッセイ……バタリ

あの日がむしゃらにつけた傷跡たちに、僕はどれだけ助けてもらっているんだろう

昨日はある中高時代の友達が誕生日だった。

メールくらい送っておこうと思っていたら忘れた。あらら。

そういえば夏に誕生日だったあの人へのメールも、23時59分に送信して、誕生日中に届いたかどうか怪しい。あらら。

先月末に誕生日だったあの人へ2年ぶりに送ったメールは、以前のやりとりにならって超々長文にしたけれどやめておけばよかった。あらら。

まぁいいか。

その日は毎年回ってくるんだから

変わった。

高校を卒業して、どれくらい経ってからか、感覚が変わった。

「長らく会っていない人の誕生日なんだし、今年のX月X日でも来年のX月X日でも、似たようなもんだろ」

なんて言うようになったか。

数年前までは、色んな人に誕生日を祝う言葉を言い損ねただけで、凹んだりしていた。

そんな些細なことで一喜一憂すること自体が子供だった、と、一言で済む話でもあるけれど。

ともかく、一度限りという気持ちが強かったのだ、あのときは。

その日その日を逃せば、そこにいる人が、ここにある日常が、どんどん離れていってしまうような気がしていた。

日が変わらないうちにつけたい傷跡をつけていなければ、何もかもが流れていってしまうように見えて、がむしゃらに一日一日世界に凹みをいれようともがいてた。

14の頃に、告白なんていう微笑ましいことをしたのも、たぶんそういうことだったんだと思う。

あとにも先にも、あんな風に誰かに想いを伝えたのはあれっきりだ。

ただただ大人になるのが怖かった。

ココを離れれば”この日常”が終わってしまう。

だから”この日常”に異常なほどしがみついていた。

そして、予想通り、けっきょく、やっぱり、いよいよ、とうとう、ついに、ようやく、やっと、あっけなく、そんな時間には終わりが来た。

終わってしまったから、もうその日常はめぐらない。

だから飄々と言ってしまえる。今日も明日も同じだなんてことを。

遠くの景色は、少し動いた程度じゃ見え方に変化はない。


そうやってかっこつけて諦念ごっこに興じていると、ふと、妙なことが起きて目が覚める。

忘れられるのだろうと思っていた誰かが覚えていてくれたり、なくしたくなかった思いをほかの人が代わりに持っていてくれたりする。

この表現は最近多用しすぎな気がするけれど、

あぁ、あれはこの日に回収されるための伏線だったんだね

ってしょっちゅう言いたくなるんだ。

おかしいな。

終わったと思ったあの日常は、糸のように細くなって、まだゆっくり進んでいるのかもしれない。

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