ここは、田舎から出てきたどこーにでもいそうな学生≪ちくわ≫が、日常に流れているあれやこれやを拾い集めて、ある日はすりつぶし、ある日はこねまわし、ひそやかに物語に練りなおしてゆく――そんな場所なのです。

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なんか書く

あと26分で今日が終わる。
何もないときこそ、何か書いておくべきかもしれない。
と、とりあえずで書き始めてみたのがこの記事。
だから今日のこの文章は、いつもにも増して大したことが書けないと思われる。

気分が沈んでいる。
僕の場合、気分が沈んでいるのは大体やらなければいけない些細なことをやっていないからで、今回もそれ。
某友人がメガネを紛失したときに、「メガネを作りにいかなきゃいけない、それだけで死にたくなるな」と呟いていた。
本当に本当によくわかる。
いや、僕は死にたいと思ったことはないけれど、「お願いだから別のルートに生きさせてくれ頼む」とぶつぶつ呟いたりする程度のことはある。
言いたかったのは、些事の方が大ごとなんだよなぁってこと。
知らんけどな(関西風)。
命に関わるような大ごととかの方が困るだろうけどそりゃ。
しかし日々の憂鬱の原因はほとんど些事なのだ。
些事とわかっているから愚痴も言えない(まぁいま言ってるかもしれない)し色々つらい。
おわり(あっもう終わるんだ)。
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未来って何だっけ、あるいは2014年の抱負 (後編)

色々ややこしいので、日付が変わっているけど1月5日付で更新する。

未来を未来として捉える話と、物事を個別に捉える話と、ついでに今年の話をして、終わる。

 

ここまでのあらすじ。僕は「予測不能なことに対する対応が苦手である」だから「怖がらないようにしよう」と漠然と思っていた…。おわり。

 

さて、その矢先に、知り合いの占い師のお兄さん(某友人の言い回しを流用)がブログにこんな記事を書いているのを読んだ。

 

「占い師になって思ったこと」 - らららぎの亡霊たち

 

とても面白いので全部読んでほしいところなんだけど、「あとで読む」って人もいるだろうしとりあえず最低限だけ引用する。

 

それの何がすごいのかというと、未来というのは絶対的に他者なのだということがわかる。未来が他者とは哲学者レヴィナスの言葉遣い(『時間と他者』p.67)だが、つまり「未来に不意打ちされる」ということである。現在の延長として未来を考える人は、不意打ちされない。なぜなら「知っていること」(歴史)の量が単に延びたり増えたりしただけだと思っているので、未来も「知っていること」にカテゴライズされるからだ。しかし、未来を未来的にとらえる人は、それが完全に「他者」であることをわきまえている。「知らないこと」がやって来るという了解をしているのである。


それによって起こることは、「過去 ー 未来を含んだ現在」という対立から、「過去を踏まえた現在 ー 未来」という対立に移行することができるようになるのだ。ほら、すごく前向きになる。どうしても未来を向かざるを得なくなる。それがどんなにすごいことか、ネガティブな私にはよくわかる。過去の定説にしばられている老いた教授にもよくわかる。


あえて少し回りくどく言うと、過去から未来に流れていた時間が、未来から過去に流れ始める。時間の観念が革命的に回転する。こんなこと言っても学校教育と仲良くしてきた人は「は?時間は過去から未来だろ。寝言は寝て言えよ」となってしまうけれど、むしろそんな固定観念を寝かしつけていただいて、いちど納得してみようとしてみると、不思議なことに、なんの違和感もなくなる。

 

「占い師になって思ったこと」 - らららぎの亡霊たち

ええっとしまったな言いたいことが書き尽くされていて何を書いても蛇足になる気がしてきたぞ…

 

ともかく、僕が漠然と考えていた「未来を怖がる」という、誰もがもっていて僕はとくに強く持っていると思われるその心理は、そもそも未来を現在の延長として捉えていることが原因のものだったのか、と気づいた。

>時間は未来から過去へと流れる(圏点をつけたい)

最初その文を読んだとき、なんかどきりとはしたけれどよくわからなくて、何となく心に留めて生活していたら、彼の言うとおり「不思議なことに、なんの違和感もなくな」った。

僕にまず必要だったのはその考え方だったのだな、と気付いた。

言い回しを使わせてもらって、「未来を未来として捉える」と今のところ呼んでいる。(ブログでもつい使ってしまった気もする)

 

僕たちは、現在までの時間を積み重ねてきたのと同じやり方でまたひとつ時間を積み重ねれば未来になると何となく思っている。

でもそんなことは幻想だ。

5年前に考えていた未来なんてここにはない。

未来に何が起こるかわかんないよね~という言葉をさらっと読んで浅く読み取れるようなちっぽけな意味だけじゃない。

例えば今の僕は5年前に考えもしなかったような要素に意味を見出している(価値観の変容)し、5年前には存在を知ることさえなかったような文化に浸ったり抜け出したりしてきた(文化的な経験値の変容)し……。

 

そう、「未来のためにお金を貯める」なんて言い回しも象徴的だと思う。

「未来」なんて言ってるけれど、「お金が大事だ」という価値観は現在(の自分)のものである。

もしかしたら将来自分がお金に価値を見出さなくなるかもしれない、ほかの何かに強烈に価値を感じているかもしれない、とかそういう可能性は考えていない。

(未来のためにお金を貯める行為自体を非難してるわけではないよもちろん)

僕たちが薄っぺらく「未来のために」とかいうとき、僕たちが捉えているその未来は「現在の、自分」が、「ココまでの(過去~現在の)集積からなる価値観」をもとに考えているこの先でしかなく、そんなもの持ってても崩れるに決まってる。

それも、僕たちが「まぁ何かあったらアドリブで処理しよう」とかそんな発想程度じゃ太刀打ちできないような崩れ方だ。

3次元だと思っていたら実は世界は4次元でしたーみたいなもん。

基底が一個増える。

今日までの自分でどうかしようというのが無理。

大学の友人が、美術館に行くときに、ある時期まで展示されている絵に対して自分の持っている知識をあてはめようとしていたけど あるときからそれが虚しくなったって話していた。

「知ってることを確認しに行ってもしょうがないわけですよ」

とその友人は言っていて、その通りだと思う。

絵画の鑑賞にせよ、読書にせよ、人の話にせよ、(総じて「未来」は、と言いたいけどとりあえずかっこ書きにしといて……)何か知らないものがあるから見に行きたいと思うわけで、それを今の知識で処理しようというところに矛盾があるのだ。

これはべつだん極端な話でもない。

僕は映画や舞台や講義の始まる前に「このあとこれをネタにブログでも書くかー」とか考えることがあって、まぁそこまではいいとして、つい「こんな感じのこと書こうかなー」まで思考が巡らせているときがある。

はっきり言って馬鹿げている。

授業を受ける前に何か文章が書けるんならそんなの聴く意味が皆無じゃないか。

「それなしでは知ることさえなかった」ような軸を見つけるからこそ、新しいことを考えられるのだ。

(ちょっと話逸れるけど書くか……。こないだも書いたけど「大晦日に一年のまとめをしーよう♪」なんて考えていたら大晦日を一晩中友達と過ごすことになって(楽しかった)全て消え去って、「まったく先のことなんて決めてるつもりでもポローンと変わるんだなぁ」と良い意味で思い出させてもらった)

 

学問だって、自分の思想だって、何だってそうで、ついつい新しくやってきたものも既存の理論に組み込みたくなってしまう。

僕たちは、いや僕はって書いとこうか、僕はいつだって過去から得た信念や思想を次にやってくることに適用しようとする。

もちろん反省を活かすという意味ではそれはとても大事なことだけれど、ときどきそれが過剰になる。

例に出すにはちょっとずれる気がするし、けっこうくだらない話なんだけど、例えば僕は「自分の中で14歳の夏を超えるような時間は今後やってこないだろう」と信じている時期があった。「あるとしたら、それは今のこの気持ちを忘れてしまった時だ」という予防線つきだったかな。

けれど、そんな考えはあっさりと崩れた。予防線も回避した。当時の気持ちは包み込む形で価値観が変わったという感じだった。

 

ある講義で教授がコリングウッドという歴史家の言葉を引いて、似たようなことを言っていた。

できあいの規則(ready-made rules)を愛しすぎるあまり、「その規則では十分じゃないんだ!ということを気付かせてくれたかもしれない何か」に気付かないことが往々にしてある、と。

だから、ready-made rulesは大事にしつつも、新しく出会ったものには個別に対応する必要もあるという話だった。

まったくその通りで、僕に欠けていたのはそれだった。

そもそもの(僕の)話に戻ると、未来があたかもコントローラブルであるかのような錯覚をもっているから、現実には全然ちっともうまくいかなくて慌てふためくのだ。

櫃内様刻くんがいうところの「将棋を指している途中で地震が起きて駒の位置がずれたような」感覚だ。(絶対要らなかった一行)

未来は誰にも平等に未知のもので、だから今の自分で対応することなんてちゃんちゃらおかしな話はわけだ。

何があっても、何もなくても、未来は未来だ。

行き過ぎた心配をするのは馬鹿らしい。

心配すればするほど未来を制御しようとしちゃって泥沼である。

そのつど、「初めての対応」をすればいいのだ。

どうせ誰だってそうなんだから。

翌日や翌週に不安なことが待っているときにこれを考えると随分気持ちが楽になる。

 

ところで、いま引用箇所みようと思ってコリングウッドの本(まだ読んでない)パラ見してたら、【知識は「既知のもの」から「未知のもの」に向かってではなく「未知のもの」から、「既知のもの」に向かって発展する】みたいなこと書いてあるの見つけてしまって、なんだこれそのままじゃん。。。

気になるし今度ちゃんと読んでみよう(おっとこの時点ですでにready-made rulesを適用しかけているぞ!撃て!!)。

 

……さて、そろそろまとめに。

最初に張ったブログのお兄さんが、以前に「観光」を「旅」と対比して「目的地の消費」とキャラクタライズしていたんだけれど、それにのっとっていうなら僕たちはいつも未来と名付けた妄想を消費していることになる。

現在までの(=過去の)自分がもっているモノで作り上げた「未来」をせっせと消費している。

僕の場合、それをすればするほど、現実にやってくる未来が怖くて怖くてしょうがない。

だって実際に想ってた通りにならないもの。

だからできるだけその考えをやめようと思う。(もうやめてるつもりではある)

別の言い方をするなら、未来を過去と現在の先にのっぺりと繋げないように、ひとつひとつのものを個別に見るように心がけてみる。

そうすると何かが見えてくるかもしれないし、もしかしたらそれはいままでの自分では想像できなかった魅力的なものかもしれない。

例のお兄さんの表現を借りると、「見たかったもの」ではなく「見えてきたもの」こそが素晴らしいのだ。

 

言うは易し。

でもまぁ、言わないよりは良いはず。

そんなわけで、今年は 旅をしよう と思う。 (……比喩ですよ(念のため))

恐ろしく長くなったけれど、それが2014年の抱負。

最後までよんでくれた人もし居たらありがとう。ぺこり。

未来って何だっけ、あるいは2014年の抱負 (前編)

僕は人と話をするのが苦手だ。

当然ながら、ずっと昔から自覚があった。

最近になって、それを別の角度から考えることが増えた。

「どういう点が苦手なんだろう」

例えば、僕は壇上でしゃべるのはそれほど苦手ではない。

中学高校で、休み時間にうるさいくせに授業中の発表になるとぼそぼそしゃべる人が結構いたけれど、僕はといえばむしろ発表の方がハキハキと喋っていた気がする。

そして、自己顕示欲が強いのか、舞台にあがるのはむしろ好きである。

高校生の頃は演劇までやっていた。

 

このあたりのことを踏まえて、こう言いかえようと思う。

「僕は予測していない対応が苦手だ」

 

考えてみるとそうだった。

人と話すことよりもっとわかりやすい例があった。

僕は昔から慣れない手続きをするのが大嫌いだった。

小さい頃は祭りの屋台でお金を払うのも抵抗があった。

はじめてひとりで銀行に行った時も、はじめてひとりで郵便局に行った時も、どよーんとした気分だったのを覚えている。

経験値があがるにつれ日常生活に支障はなくなった(なくなってねーだろという意見もある)けれど、根本のところは変わってないと思う。

 

普段話慣れていない他人と話をすることがわかっているとき、僕は無意識的にしろ意識的にしろその会話をシュミレートしている。

そのシミュレーション通り(アドリブという”想定内”も含む)に行けば円滑に進むし、何か思い通りにならないとぶつりとコミュニケーションが途切れる。

大げさに書いてみたけれど、思い返してみると本当に僕の日常なんてこんななのである。

あぁこみゅしょー。こみゅしょわ。

 

何度も書くけれど、会話に限った話ではない。

「あの手続きがいやだ。。。」

「バイトつらい。。。」

「寝てたい。。。」

こういう日々のつらみつらみのほとんどが、「予測できない事態への対応」と括れることに気付いたってわけ。

 

そういう感じで、去年の秋頃から予測できないことを怖がらないってのを2014年目指すべきことのひとつにしてもいいかもなぁと漠然と考えていたんだけど、その後さらに一段階考えが深まるきっかけがあった。

 

続きは明日書く。

僕は今を練ってゆく

あけましておめでとうございます。

2014年が始まって、早くも一日が過ぎました。

 

 

1月2日……あれから一年。

あの一年前の冬に僕は「この年末年始は過去との決着の節目になりそう」と書いた。

実際そうだったらしい。

高校で成人式が行われた2013年1月2日は、その前の二年くらい意識し続けていた日付で、その日を越えても僕は固有名詞かのごとく「1月2日」は呼び続けていたけれど、一年も経つと収まるべきところに収まり、「1月2日」は再び普通名詞に戻った。

 

あれからの一年は、少しずつ後ろを見ることが減っていった。

 

いくつか理由はあるけれど、まず年齢的に将来のことから目を逸らさずにはいられなくなってきたことがあるのだと思う。

自分がどうやって生きていくのか、今までだったら逃げていたようなことも含め、それなりに様々な方向から考えた。

考えなくてよさそうなことまで考えることを促してくる半ば迷惑な奴が近くにいたせいもあるが。げふんげふん。

「学生」という身分で何をやるか(平たく言うならどこで何を学ぶか)についても、普通の人ならコレを高校生の頃に考えておいたんだろうなぁと思われるようなことをアレコレ調べたりシミュレートしたりした。

東京から離れることも考えた。九州に帰ろうかと何度も思ったし、関西の大学に入り直そうと思ったこともあった。結局、やはりここにいようという結論に落ち着いたけれど。

どんな学生生活を送るかに関連して当然将来どうやって生計を立てていくかも現実的に想像した。現時点での自分の考えは一応出たので、あとはそれをベースに考えが固まるかもしくは塗り替えられていくことだろう。

そんなことを考えていたから、とてもじゃないがゆっくり過去に浸っている時間はなかったのかもしれない。

 

それと同時に、過去に対する執着も薄れた。

正確に言うなら、昔のことを忘れたくないとは今でも思っているものの、いざとなったらいつでも戻ってこられるという安心感が強くなった。

これは去年というより一昨年から薄々感じていたことで、一度しっかりと築かれた人間関係、とくに僕が意識するのは地元でのそれのことだけど、そういう人間関係は長く離れていてもすぐに再構築できるのだ。

それまで何をやっていたって、その気になればすぐに「あの日の続き」ができる。

いいかげん鈍感な僕もそういうことがわかってきたようで、手放したくない過去から手を放す余裕、よそ見をする余裕ができるようになってきた。

 

もっと生々しい話もあった。

9月の最後の日、僕はずっと会いたかった人ともう一度だけ再会して話す機会を得た。

たぶんもうこれから会うことはないだろうと思うし、まぁそれで良いと思う。

もう今となってはその時の感覚を完全に思い出すことはできないけれど、ひとつのことにこだわることなく今ある環境で生きようと思えるきっかけになったのは確かだった。

そしてどういうわけかそれを手助けしてくれる人たちがいた(足の骨を折った奴もいた)。

奇しくも翌日は某懇親会で、僕の周りの人間関係は止まることなく更新されてゆき、「どちらにせよ君はそんなところに立ち止まってる場合じゃないんだ」と言われているかのようだった。

 

そんなこんなで、去年は「過去を見る自分」から「未来を見る自分」に変化した年だった。

いや本当はここからが本題なんだけど、それだけで多分ひとつの記事になるので、次の機会に回そうと思う。

今回は現象、事実に重きをおいて書いたので、明日はもっと精神的な話になる。

「未来」について、だね。

 

さて、こんな総括は紅白でも見ながらやろうと決めていたのだけれど、大晦日の夜にラーメンを食べに行った友達と結局カウントダウンも一緒に過ごすことになったので、自然にこの記事も年明けになった。

大晦日から元日にかけては夜中も電車が走っていて、深夜に都心を動き回るという貴重な体験もできて面白かったし、もろもろ偶然も重なってなんとおせち料理にもありつけたし、なかなか素晴らしい年末年始だった。楽しかったし。

今日はそこまで書けなかったけれど、物語は予想外に展開するっていうのはこういうことなんだろうね。

無意識にこうなるだろうと思っている「未来」なんて、簡単に裏切られて、ときにはこうしてもっと豊かな何かで上書きされる。

 

後ろを振り返って朝から晩まで昨日を練り直してる暇があったら、外に出かけて新しい「今日」をつくる。

そういう一年も、いいかもしれない。

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