カレンダー的に見ると毎日が空白(いわゆる「暇」という感じではなく、好き放題に充実した時間をすごしている)なのだけれど、予定を入れるのが怖い、という感覚があることに気付いた。軽い予定恐怖症だ。そんな大げさなものでもないけれど、自分からは積極的に予定を埋めるきにならない。傷つかずに生きていくことは困難なのに、どうにも諦めが悪いと自分でも思う。社会でやっていけるのだろうか……もっと身もふたもない言い方をすると、自立して生活していけるだけのお金を継続的に稼いでいくとかできるんだろうか、とぼんやり考える。嘘、考えてるふりしてるだけ。まあそんなこんなで、人と会わずに一週間を過ごした。こういうの、予備校生活の最初のころにもあった気がするけれど、あのときと違って特に気分が沈むこともない。何しろ、本当に好きなことをしてればいいからね。(とはいえ、さすがに他人との会話がゼロというのは面白くない。インプットの時間も思索の時間も増える分、そこで考えたことの出力がキーボードをかたかたやノートにかりかりだけだと物足りなくなる。)
話は変わるけれど、大学生というのは、四年間で完結を迫られる。反論は出そうだが、いいやそんなことはないのですよと言っている人がいくらか存在したところで、四年で卒業ということから、しぜんと多くの人がそのような目線で学生を見ていることは揺らがないだろう。しかしぼくは、四年間で何かをまとめるつもりもないし、そんなことができるとも思っていない。ぼくの場合大学生活は少なくとも(嫌な言葉だ!)合計6年間になりそうだけれど、問題は変わらない。処世術ならぬ処学校術としてまやかしの計画は立てるかもしれないけれど、現実に4年ないし6年で何かを終える計画などない。ただし、そのおおもとにあるのは、「学問は学校じゃあ終わらないよ人生はずっと勉強だからなぁわっはっは」みたいな優等生的意見なんかではなく、「勉強なんて趣味だし、やりたいときにやるだけだからさぁ……」という怠け者の考えである。
こんな当たり前のことに気付かなかった自分は相当なアホだと思うけれど、大学というのは趣味で片手間に学問をやるところではない。大学というのは学問的に学問に取り組む場所である。アカデミックにアカデミズムに沈む場所である。ぼくのような人間が来るところではなかった。だいたい、努力する気もないんだもの。追い出されることになっても言い訳はできない。だけど、ぼくのような人間が大学に入り込んでしまったのが良くないことだとしても、それは制度の欠陥であり、ぼくのせいではない。いや、うん、ぼくのせいなんだけど、少なくとも責められるいわれはないだろう。そもそも、大学側は迷惑かもしれないけれど、ぼくは別に直接の不利益を被っているわけではないので、こちらがごにょごにょ言いたいわけではないんだ。
学問の世界はとてもわくわくするし、勉強することは楽しいし、だけどそれはぼくにとって日曜大工のようなレベルの話である。軸なんかではなかった。気分が沈んでいるときの対処法としてわりあいうまく使えるということに気付いて、軸のように思っていたこともあったけれど、たぶん切り取り方を少し間違えていた。何と間違えていたのかまだ結論は出ていないけれど、少なくとも学問だとか(狭義の)勉強はぼくの軸ではない。いっときのライフスタイルではありうるかもしれないが、軸ではない。
大学に入ったことが間違いだとは思っていない。それとこれとは話が別。ただ、本来はぼくのような人間はお呼びじゃないんだろう。いいかげん気付いた。じゃあ自分はどういう態度を持っていたのかってことについては、時間かけてもう少し精緻に考えようと思う。
冬の空気に変わった。ぼくの住んでいる部屋は(窓が多いため閉塞感はないけれど)日当たりが悪いので、なおさら敏感に肌寒さを感じた。こういう空気は、人を感傷的にさせる。冬を越せるかどうかわからなかった頃の名残なのだろうか。たっぷり睡眠をとったので、朝方たくさん夢を見た。中学の頃告白した(ふられた)相手と、デートに行っている夢もあった。昔は手の届かない憧れの人だったのに、等身大の女子大生として登場していたのがなんだかおかしい。九州にある架空のタワーにのぼった。タワーから、飛行機が飛ぶらしい。別の夢では、妹も出てきた。現実のぼくは弟との二人兄弟。夢の中の妹は弟に似ていた。
今日は読書メーターの話。読書メーター自体の説明は省く。
読みたい本の把握と、読んだ本の記録のために「読書メーター」を使っている。基本的に便利な機能がたくさんついている。ただ、一部だけ読む本というのがぼくは大量にあり、それをぜんぶ「読んでる本」に入れるしかないというのが不便なところだ。とくに、一部だけ読んでその後はもう読むことがなさそうな本など、行き場がない。
「読みたい本」に登録している本はすでに1400冊を超えており、これは果たして意味あるのかと思ったりもしていたけれど、疑似本棚としての役割を果たしていることに気付いた。自宅の本棚を考えてみよう。そこにある本は、一度は欲しいと思って買っているので、自分的に何かの基準をクリアして準備された、純度の高い自分向けコレクションになっていて、だから「なんとなく気分にあった本をひょいっと抜き取って読む」をしても当たりを引く率がかなり高い。読書メーターの「読みたい本」もそれに似ていて、一度は自分が読んでもいいと(信頼できる誰かが推薦していたからとか、何かの参考文献だったからとか、立ち読みして面白かったからとか、さまざまな理由で)判を押した本たちなので、「なんか気分に合うやつ選ぼー」ってときでも、やみくもに本を探すよりこの1400冊から探した方が自分にとっての良い本に当たりやすい。1400冊もあればそのときの気分に合う本くらい見つかるだろうしね。んで適当に数冊みつくろって図書館で借りてきて読む。素晴らしい。(図書館では図書館で読みたい本が見つかってぐぬぬってなるんだけどね)
おまけの話。最近めっきり小説は読まなかったのだけれど、こないだとても久しぶりに読んで(乾くるみの『イニシエーション・ラブ』だった。面白かった。おすすめ)、感想とともに登録していたら、翌日にはかなりの数の「ナイス!」がついていて笑った。そうか、小説だとこんなに反応あるのか。みんな読書メーターは小説に使ってるんだな!(いまさら)
さて、あと半月ほどで次の学期が始まるけれど、「学問とのつきあい方という意味でのスタンスを見つける」というのが来学期の観念的な目標になる気がするなぁ。また今の考えは近いうちに書くけれど。ちなみに観念的じゃないほうの目標はともかく無事に単位をとること。
世界に、というと大げさだけれど、どうやら何かに影響を与えているらしいという確認を積み重ねて、ぼくは生きている。先日ひさしぶりに会った友人が、他人に与える影響という話をしていたのを思い出す(その友だちの出した例は面白くて、自分がサークルの部室にロフトをつけてみたら?と軽く提案していたところ、自分がサークルをやめたあとに「ロフトつけましたよ」と後輩から連絡が来た、という話なんかをしていた)。
以下ごちゃごちゃとそれっぽいことを書くつもりだけれど、準備を重ねて気を張って書いている文章とかではまったくないので、適当に読み流してほしい。高三のとき、ぼくは数人の友人とともに、文化祭の司会を務めた。みんな張り切っていたので、オープニングでは講堂を真っ暗にしてケミカルライトを使ったライトパフォーマンスをしてみたり、エンディングでは友だちの手作りの動画を流してみたり、などなど、色々とそれまでにないことをやってみた。この夏までで、ぼくたちが卒業して以来4回ほど文化祭が行われているわけだけれど、どうやらライトパフォーマンスやエンディング動画は、伝統になってしまったらしく、未だに続いているらしい(いや、エンディング動画に関しては、その当時動画を作った友だちとぼくが頼まれて毎年作っていたのだが…という裏話はさておき…)。あのころは冗談半分で、何か残せたらみたいな話をよくしていたけれど、本当にこんな影響を与えてしまったと聞くと、何だか不思議な気分になる。前にもちらりと書いたけれど、ぼくが高三だったときの高一の代が高三になったとき、「あの二年前の先輩たちのときみたいな文化祭にしたい」と言ってくれたらしく、そういうのをきくといろんなことが報われた気になる。高校に演劇部を創る活動を一緒にやっていた友達で演劇の道にずんずん進んでいった人とかいるし、それを影響というのは少し違う気もするけれど、未来の変化に関わっているというのは本当に妙な感じ。絶対なにかにはかかわっているのだから、影響は与えているのはそうなのだろうけれど、目に見える形だと、不思議な気持ちになる。いろんなことに意味が与えられたようで、安心もする。
数年前に nipox25 くんが「自分の出た中学や高校は好きで誇りも持っている一方で、大学に対しては何も感じないのはなぜだろうか」というような内容から始まるブログを書いていて、とても共感したのを覚えている。一部引っぱってくる。
中学や高校の時は、学校に対して積極的に参加していた。参加というのは、その所属に対して自分が何らかの変化を与えることである。僕のいた中学や高校には、僕がいた形跡が今でも残っているはずだし、無かったとしても、残っていたという記録は確実に残っている。
部活でもそうだ。自分がいた形跡がある。自分がその所属に所属していたというよりも、自分がその所属自体の一部または全部になっていたということである。
なんだ、結局自己愛か。
僕は今東大に対して何か投げかけているわけではない。ただキャンパスにいるだけ。なるほど。
所属を手段として利用しようとする間は、その所属はいつまでたっても自分にはならないから、特に特別な感情を抱くことは無いのであろう。自分と切り離していることになる。
「所属に対する愛と誇り」 - 逆にこの時確かにそうなる。
参加するは英語で take part in だし、結局「その所属自体の一部」になってしまうくらいの影響力を持って初めて「参加」なのだろう。そしてそれは自分自身への愛と同様に愛することができるというわけだ。ぼくは中高時代「誰かと協力して何かをやる」ことに関しては、かなりいろいろ手を出してきたと自負しているけれど、大学のサークルはやめてばっかりで何も続かなかった。結局これなのだろう。自分たちで始めた活動、自分たちが作った団体というのは愛着がある。存在意義も自分たちにあり、よく知っている。説明の必要などなく、知っている。第一期生というのは、それが最大の強みだ(だからがんばってねって言ってるんだよ、読んでね)。具体例を列挙するのは止すけれど、十代のぼくがやっていたのはどれも、自分が一から始めたことだった。部活ですら、もともと超弱小の陸上部だったのが自分たちの代から改革が行われたりした。性格が変わったわけでもなく、ただ単に、もともとかっちりある団体に入るというのが苦手なのだろう。いや、つまり自己愛でしか動けず、社会に適合できていないということなので、正直、ぜんぜん褒められたことじゃない。どうにかしたいところだよ。はぁ……。
(ちなみに、そんなぼくも予備校にはわりと帰属意識を感じているのだけれど、あれは一年分の人間しかいなかったからじゃないかと思う。その年にあの校舎に居たのは、ごく少数の多浪生を覗けば、「初めて予備校に入ったぼくたち」だけだった。すんなり「今年の河合塾F校の一部」だという錯覚をしやすい。)
何が言いたくて書いた記事でもなく、自分が他人に与える影響があるとなんだか安心できるね、以上でも以下でもない話。(それほど気にもしていなかったとはいえ)春からこっち、帰省中を除くと、ほとんど何もしていないような気がしていたけれど、ある人によると、それなりにぼくの言動が与えた影響というのはあったようで、ほっとしたというか、嬉しかったというか。それだけ。
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