ここは、田舎から出てきたどこーにでもいそうな学生≪ちくわ≫が、日常に流れているあれやこれやを拾い集めて、ある日はすりつぶし、ある日はこねまわし、ひそやかに物語に練りなおしてゆく――そんな場所なのです。

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見上げれば雲一つない快晴で、あの街の空を思い出す

雨続きだったのがようやく晴れて、濡れたアスファルトが日光を反射しているのかきらきら光ってきれいでした。洗濯物も干せてよい気分です。今日は午後からはちゃんと授業を受けよう……と思って大学に行ったら、総長選挙だとかで午後が休講でした(気づいていなかった)。勉強道具だけは例によってかばんにたくさん詰めていたので、そのまま図書館に行って数学をやっていました。といっても、あんまり真面目にはやっておらず、ゆるふわで有名な30講シリーズの「ベクトル解析30講」をのんびり読み進めていただけです。なんだ計量線型空間って内積を線型空間に構造に入れたもののことだったのかとか、今さら感あることをちょこちょこと確認していました。数学はとてもとても楽しいのだけれど、その楽しさを人に伝えることが難しいですね。いろんな人がそんな中で伝えることに挑戦していて、ぼくもいずれ挑戦したいけれど、ともかく険しい道に見えます。らららぎさんが主催する、高校生向けの同人誌に近すぎず遠すぎずの未来に参加することになるはずで、そこでこれをやることになるのかもしれません。(あるいは、同じくらららぎさんの企画する文系向け数学勉強会……?)

 

双対空間の章で「双対(duality)」という概念を初めてまともに理解しました。双対というのは2つの対象があって互いに他方を同じ関係で規定し合っていることで、「数学の歴史の上では、双対性がはっきりした形をとって現われたのは、射影幾何学においてであった」という記述が衝撃でした。射影幾何学の本質は点と直線の双対性にあるとのことで、そんな発想がなかったので、驚いたのです。いつぞや、複素数が「2つの数を内に持っていて、和と積がこのように決められるもの」と定義しても僕のよく知っている複素数になるのだ、と気づいた時とか、ガチ勢の方の数学たんの「ベクトルは有向線分を位置で割ったもの」という呟きを見たときなんかに似たおどろきかもしれません。それ以降は難しい話に行く前に(今日のところは)やめてしまったので、正直今日勉強してたことになるのかわからないけれど、まあしかし、かっこいい説明もできない無名の進捗の積み重ねの上に色々なものがのっかるのだろうと信じています。というか、そういう地道なことから逃げすぎなんですよね、最近。

 

それから少し本を読んだあと図書館を離脱しました。夕食を食べて、大学前にある古本屋を覗いたあと渋谷まで歩いて、山手線で池袋に移動しました。ジュンク堂をうろうろしたあと、コメダ珈琲でGraphくんと会いました。彼とはずいぶん前から会おう会おうと言っていたきりなかなか実現していなかったので、今回文芸誌の手渡しを口実に(?)会うことができたのは良かったですね。あれこれ話したので、数行でまとめてしまうのはなんだか作り話っぽくなりそうで難しいですが、漢字と平仮名の話とか、人間とコンピュータの話とか、言葉の話とか、「考えてもわからないこと」とか、興味の方向が共通している話題が多くあって楽しかったです。もっと話したことを土台にして何か書ければいいのだけど、そういうのは自然に書くべきときには出てくるだろうと思うのでやめておきます。

 

文章を書くことについて、自分ととても似たステージでもがいている人と話せた、という意味でも楽しかったように思います。常体と敬体の話とか。文章と言えば、彼の書くものは、(勢いに任せて書きたいことを書く感じではなく)文章のペースが等速に流れるように丁寧に加減されていて読みやすいなあという印象を持っていて、それは不思議と、顔を合わせて話していても感じることでした。文章というのは、テクニックやスキル以前に、姿勢のような(ラブやで~のような)ものも大きく関係しているのかもしれません。そんなこんなで、2時間がすぐにすぎてしまいました。オフ会という言葉も最近はあまり使わなくなりましたが、オフ会は初対面の場にそれまでのコミュニケーションを「ダブらせる」ものかもしれません。しんがりも加速していることだし、きっと次に会うころにはまた全然違う前提群を共有した状態で会えるのじゃないかなぁと楽しみです。そういえば、シロノワールは確か2年ぶりくらいでした。おいしかった。


最近、情報と日常の結節点、理論と世界の結節点、理想と現世の結節点、みたいなものに興味が出てきています。たぶんそういうところに直接向き合っているのは工学で、工学ってすごいことやってるんだなとじわじわとわかってきました。といっても専攻にはしないだろうなと思いますが、システム論とか、認知科学とか、そういうメタ的なことにぼくは惹かれるようです。一方で、メタにメタにと際限なく進むだけってのは(ぼくのような雑な方法では)視野が狭いのかもしれないとも最近は考えたりします。俯瞰しても(ぼくごときでは)見えるのは米粒だけじゃあないかと思うのです。空を飛ぶのではなくて、一人ひとりの思想に潜りたいなと思います。今のぼくに要るのは多分そっちでした。関係論よりも実体論、論理学よりも文学(とても哲学とかいう勇気はなかった)、あるいは入れ替え不可能なものというか、そういうものに意識的に目を向けるべきなのでしょう。そういうものが特別大切だからというよりも、そうでないほう――構造の美しさとか――には、ぼくは比較的すぐ気づくことができるようなので。ぼくはそれほど頭もよくないから、意識したところで大したものは得られないかもしれません。それでも、心がけを変えてみるのは悪いことではないでしょう。

 

(……いやそんなことより、放置していることがたくさんある、ということも、自分だけはよく知っている。)

(例によって日付が変わる前の日付で投稿)

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ようやく図書館に行った日、水ぶくれしただけの生活雑記のはじまり

ですます調にした理由を説明するとか前回の最後に書いてありますが、はっきりとした理由があるわけでもなく、
1.ただ最近しばらくブログを常体で書いていたので、少し気分を変えてみるかーという心持だった
2.つい最近読み始めたブログがあって、それに多少影響を受けそうなので、その文体の(過度な)模倣になってしまわないように、あえて常体をやめたかった
3.稀にだが気が滅入ったときに突然「なんて自分は偉そうに見える文章を書いてきたんだ」と自己嫌悪になることがあったので柔らかくしたかった
(ただ、ですます調はこれはこれで偉そうなんですよね)
などなどの理由も挙げられますが、まあ気まぐれですね。

飽きるか、何か別の要因でやめたくなるまでは続くかと思います。
ちなみに自分の使うですます調の中では最もフランクな文体を採用しているつもりです。というほどコントロールもできちゃあいないのですが。

 

そんでもって、生活雑記としか言えないような成分がこれからは増えるのではないかと思われます。ブログを書くことをぼくがきちんと続ければ、ですけれど。

 


今週でようやく二つの作業が一段落したこともあり(かこけんの方は完全に編集が終わったわけではないですが)、というかこれ以上引きこもっていたら大変なことになりそうだぞという心の叫びの言うことを素直に聞くことにして、近くの区立図書館まで向かいました。近くにあるのは知っていたのですが、ようやく足を運び、利用登録をしました。今年から住んでいるこの区は15冊も借りられると知って喜ぶぼく。去年まで住んでいた千代田区は10冊だったので。そういえば自動貸出機はないようでした。ないからといって利用者側が困ることはないですが。

 

公共図書館で本を探すというのはとても久しぶりなことでした。それほど広い館ではないので、興味のある棚はしっかり端から端までじっくり確認できます。読みたい本を探すにあたって、どのように書かれているか、という点について、自分の中で意識する要素が増えたように思います。詳しくは書きませんが、本をパラパラとめくったときに見えてくるパラメータがたぶん3つ4つは増えました。思えば、大学の講義でもそうです。この講義はこうやって語られてゆくタイプの講義だな、こうやって組み立てられてゆくタイプの講義だな、というようなことを考えるようになりました。これ自体は良いことです。けれど、こうやってメタ的なことばかり考えているのはぼくの悪癖といえます。問題は「ばかり」という部分なのですね。偏りは適正な範囲では個性になるけれど、過剰であれば足を引っ張ることにしかなりません。過剰が足を引っ張るというのは面白いことです、量ではなくバランスだということなのでしょう。(今論ずるべきことではないですが、偏りだとかバランスという言葉の裏には自分はひとつの分類法を採用しているという前提が含まれています。これはぼくが大学生になった年からぼんやりと考えていたことなのですが、どうにも見落とされがち、というか、ぼくが見落としがちなので、未来のぼくへのリマインドも込めてここに書いておきます。)さしあたって大事なのは、本を読むこと、講義を受けることであり、メタ的なことは気分転換にでもひょいっと考える程度でいいのです。

 

あまり借りすぎると「ふらっと寄ったとき」に借りられなくなるので、とりあえず10冊ほど借りました。借りた本を某所で読もうとしていたところで、友達からラインが来て、恋愛について半ば空虚とも思えるような話をしました。(会話の内容が空虚だったとしても、会話が空虚だということにはなりません(ことのほか重要なことです))


恋愛について考えるとき恋愛という言葉で考えるのは他人からの要請以外のなにものでもないように思うのです。いや、言葉なんてそんなものだといえばそんなものでしょうが、恋愛がらみの概念ほど「自分の言葉」になっていないと自覚しながら使う言葉もほかにないでしょう。恋愛キットとでも言うのか、最低限必要な粗雑な概念の詰まった道具箱があって、そこに入っている道具を使って言いたいことを表現しろそしたら聞いてやるかもよという無茶ぶりがまかりとおっています。しかし、そうしないと納得してもらえないのです。それがイヤなら恋愛小説(これも雑な括りだ!)でも書くしかないのでしょうが、ぼくはそんなことに費やすエネルギーはありません。それにきっとぼくが書ける程度のことは誰かが書いているでしょうし、そもそも書いたものを読んでもらえるなら苦労しないでしょう。

 

やりとりしながらだったので、本はそれほどは読めませんでしたが、『都市論を学ぶための12冊』なんかをパラパラ見ていました。ガイドブック的な本は、資料集のごとくひたすら本と要約を載せているものと、その本単体としても一冊の著書として完成されているものとありますが、この本は後者のようでした。読みやすく、単なるデータではなく意味のあることが書いてあるなとは思ういましたが、最初の2,3章を読んだところではそこまで印象に残る箇所はなし、といったところです。以上メモです。読み終わった本の記録だけつけていると読み終わらない大量の本の記録がなくなりますし、気になった箇所はノートに書いているのでいいですが、気になった箇所すら出てこなかった本は本当に消えてしまうような気がします。それで書いてみました。本に限らずこういうことはたくさんあるように思います。そういうものは消えて困ることはないだろうと言われればそうですし、うーん、大したことをしていないのに何かをしたフリがしたいのでしょうか。そういうことではなく、生活に関する記述をしたいだけだったと思うのですが、難しいですね。

 

眠いので適当なところでやめます。

7/48 文章を紡いでいるうちに人生は終わるかもしれない

ようやく、ようやく、原稿を書き終えました。先延ばしにするもんじゃないですね、本当に……(先延ばしにした、というのは9月の段階の話です)。どちらの団体(?)にも、迷惑をかけることになってしまいました。ああ……。

とにかく二つの同人誌の三つの記事を書いているうちに10月が終わりました。トータル三万字くらい。ツイイトに換算すると、214ツイイト…あれ意外に少なかったです。あれれ。そういえば、九月の時点でそこそこ書いていたはずだから、もっと少ないのでしょうか。まぁいいや。ともかく、書くことに追われて月が終わりました。10月のまとめ、終わりです。

生活が好きだ、ということに最近思い当たりました。
肌寒い日に毛布にくるまってぬくぬくとしているのが好きです。本棚の本を並び替えるのが好きです。何冊も本を積み上げて少しずつ読んでいくのが好きです。何を作って食べるか考えるのが好きです。野菜を切るのが好きです。貧乏飯のアイディアを探すのが好きです。でもふらっと外食に行ってみたりするのも好きです。深夜にコンビニに行くのも好きです。喫茶店で本を読んだりブログ巡りをしたりして、ふと思いついた言葉をノートにメモしたりするのが好きです。本屋の中をうろうろするのが好きです。慣れない街を歩いてみるのが好きです。どこにも行かず地図や路線図を眺めたりするのも好きです。

生活はひとりたびに似ています。ひとりたびの本質は失敗がないことだと思います。どちらに進もうが全てが旅という言葉に内包されのです。これが自由ということなのか。そうか、生活って自由なのか。

生活が好きだとわかったから、生活を大事にしようと思うし、ここでも意識して生活の記録をつけるかもしれません。ブログの雰囲気が変わるかもしれませんが、悪しからず。もとよりここは数ヶ月おきにガラリと趣きが変わるところです。どうしてですます調になったのかは、次にでも書きます。
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