ここは、田舎から出てきたどこーにでもいそうな学生≪ちくわ≫が、日常に流れているあれやこれやを拾い集めて、ある日はすりつぶし、ある日はこねまわし、ひそやかに物語に練りなおしてゆく――そんな場所なのです。

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さらば2016年、たのしかったよ。

(投稿直前の追記:らららぎさんが「ちくわさん、ぼくから見たよ、ちくわさん」を書いてくださいました。)


今年は本厄だったのでびくびくしていたけど、高校卒業以来ではもっとも穏やかな年だったのではないだろうか。穏やかじゃないところがあるとすれば、あんまり人にはいってないけど、春頃に大学のことでひとつ大きな手続きミス(?)があって、そこがいちばん厄っぽいとこで、それでけっこう真ん中らへんは低空飛行でもあったのだけど、いっぽうでとても幸せなこともあったので、トータルとしては良い春、良い夏だったと思う。相変わらず抽象的なことばばかりが続くけど、いろいろとたいへんななかがんばれたのはあなたのおかげです、ありがとう。

そのあと秋冬は学業で忙しくなってきて、ようやく学生らしい過ごしかたをしていたんじゃないかな。この歳になってえらそうにいうことではないけど、先学期は量質ともに大学入学以来で最良の成績もとることができて、ほっとした。


人間関係的な意味での原点回帰にあふれる一年というのか、新しいコミュニティと知り合うみたいなことは少なく、これまで仲良くしてたんだけどなんとなく疎遠になってたような人とじわじわ再会して、またよく連絡を取り合うようになって、24歳の自分なりの距離感を見つけていくみたいなことが多かったと思う。

あと、中高の仲の良かった友達がまたふたりほど東京に引っ越してきた。ひとりは、また東京を去ってしまうけれど、全体としてみんな東京に集まってくるなあという感じだし、それもあって今年はわりと中高の友人と会った。今年はほんとうに、いろんな人間関係(いろんな文化)がぶつかり合わずに人生のなかにある感じだった。バランスというと味気ないけど、たくさん諦めかけてたものを、欲張りなくらい取り戻した。そのことだけでも、いい1年だった。

ちょっと昨日今日、身近なところでいくつかそれっぽい話を見たので抽象的に触れれば、依存とか自立とか承認とか後見とか、それこそ上京したてのころにねぎくんあたりとよく話してた。お互い、なんてぼくがいっていいのかわからないけど、あのころに比べるとずいぶん自分の足場を持てるようになったね、と思うし、そういう話もした。

(散々いろんなとこで書いてるので多くは触れないけど、一昨年はじまった合同文芸誌も、編集さんはじめみなさんのおかげあって今年も続いています。闇のカーテンの如く概念を織り成す彼とかモチベ強い人とかみんなのおかげで今年も楽しく創ることができました。ついでに今月は複数の妖怪にそそのかされて3週間以上ブログを更新してしまって、楽しい時間でした。ありがとうございます。)


ローカルに、具体的に、精神的なコストから逃げずに、プライドより速く、言い訳をいなしながら、というそんなことばの、理解がいくら深まろうとも、ことばだけでは届かないことも多く、アイドリングのまま進まないことが多く、それこそ怠惰だったのだけど、そんなときこそ周りを使えと、周りを頼れといってくれるひとたちがたくさんいた。というか、周りにいる人ほとんどからそれぞれ具体的に言われた気がする。たとえばねぎくんからは「自分ひとりで考えて突破するにはもう限界がきてる」みたいなことをいわれた、その通りだと思う。

あと、冬さんが「自分のことを考えてあげられるのは自分だけ」といってたのがすごく記憶に残ってる。自分だけなんだよなあ。ぼくは「ひとは究極的にひとり」と負の面を削るようないいかたしかしてこなかったけど、それはいいかえれば、ぼくへの配慮ができる可能性を唯一持ってるのがぼくだけということで、ぼくはそういうことを考えてこなかったんだなあと思った。ぼくにはぼくのことを考えられる力があるのだ。来年はもう少しそのことを考えていきたい。

いやはや、ことばは頼りにならないといいながら、こうやってぼくはまたことばを紡ぐしかできないのだなあ。最近はひとつひとつの表現なり弁明なりに、反省につぐ反省が3重4重に織り込まれているので、安易なことはいえないのだけど、まあなんというか、2017年はいっそうことばに生活が追いつくような人生を送りたいなと思う。備えとかな、コミュニケーションとかな、あと素朴にお金もな……ある程度は自分で稼がないとな……(今年のけっこう重要な反省)。


ここ数年、意図したものしてないもの含めて隠しごとチックなのが多くてどんどん元気がなくなっていくので、変なことにならないうちに現時点の今後の予定を公開しておくと、再入学のタイミングやらその時点の取得単位やらなんやらのこともあって、ちょうど1年半後の2018年6月卒業予定。

最後の学期を休学して3月卒業に揃うようにずらすとか、就職関係のことで細かい変化はあるかもですが、ひとまず在籍はあと1年半ほどで、みなさん(もう周りは社会人ばかりだぁぁぁ)にはもうしばらく遅れをとることになると思いますが、よろしくおねがいします。

書類上次の秋から4年生なんだけど、卒論の準備とかは春から4年生になる方々と同時期にちょこちょこと始める予定なり。ただしく忙しい年になりそうだけど、「適切な形で」心穏やかにすごせる一年になればいいなあ、まあ、来年はいい年になるだろう、なんとなくそんな気がする。

ではでは、1年の半分くらいロンパの話をしていた(何万字も書いた!)2016年にふさわしく、ダンガンロンパ3希望編の引用(?)でおわる。よいお年を。


 未来なんて、だれも見たことがない。
 ぼくらの行く先は、いつだって灰色の曇り空だ。
 希望も絶望も入り混じって、どっちがどっちだかわからない。
 それはとても怖いことだけど……
 でも、待っているだけじゃ、なにも変わらない。
 なにが起きるかわからない未来のなかに、ぼくたちは一歩一歩進んでいく。
 大切なひとのことを思いながら。
 空を見上げて、明日はきっといい日になる、って思いながら。


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だれかとおなじ世界に住むということ

視線を動かすと、色とりどりの「何か」がシャンプーとリンスの上の棚に置いてある。なんだろう。興味の方が勝って、ぼくはお湯から出た。静かだった水面がザバリ、と音を立てて、ゆらゆらと揺れている。四角くて、表面に緑と赤のギンガムチェックが印刷?されている。触るとぬるっとして、きっと石鹸なんだろうと思った
——青砥みつ「学生最後の冬」(小説)

他人と住むというのは、自分の知らないものが置いてあるということである。逆にいえば、自分(ひとり)の家というのは、自分の知らないものがおいていないということである。多少の幅はあれど、一人暮らしを始めて1、2度引っ越しでもすれば、家の中に「自分の全く説明できないもの」を残しておくのは難しいだろう。

それは少し大げさにいえばことばと機能の問題とも考えられるかもしれない。ぼくひとりが生活する部屋のなかで、それがなんであるかはぼくが決めた機能に応じて決められる。みかん箱は本を入れれば収納グッズで、その上でパソコンでも使えば机、潰れないように工夫して上に座れば椅子になる。そうして使われるものは「きっと机」とか「椅子のようなもの」ではなく、ただ机であり椅子であるだけ——「それって箱じゃないの?」というかもしれない誰かはそこにいないから。

「ねえ、母さん。お風呂場のチェックのやつ、あれ、石鹸?」
母さんは水道の水を止めて、緑のビニール手袋を外しながらこっちを向いた。
「そうよ、デコパージュっていうの、石鹸の上に紙を貼るのよ」
「それって必要なの?」
「かわいいものは味気ない生活を変えてくれるのよ」
「またそんなこと言ってるの?」
「いいじゃない、かわいいものに理由なんかなくたって」
(同上)

知らないものがあれば、会話が生まれる。それがなんなのか、じぶんの呼び方はそのひとの呼び方と一致するのか、一致しているとしてそれはおなじ意味なのか、ちがうならいったいそのひとはどういう意味をそこに付しているのか、石鹸の上に紙を貼るなんて行為は必要なのか、このカホンには座っていいのか、この空瓶はコップなのか、変な形をしているこれはほんとうにスプーンなのか、レンゲでカレーを食べたりしてバチがあたったりしないのか、このうずたかく積まれた本の山はなんなのか、なにを大事にしなければならないのか、なにを雑に扱って良いのか、優先順位のパラメータはなんなのか、それを受け入れるロジックはどういうものなのか、じぶんの世界観をどう書き換えればそれをじぶんは受け入れることができるのか、じぶんと相手のみている世界は果たして馴染むことができるのか、「ぼくはここにいていいのか」、聞きたいことも考えることも無限大である。

自分の知っているものがあって、知らないものがある、だからぼくたちは日々自然に変化していくのだけれど、そういうことをぼくたちはつい忘れてしまう。じぶんの部屋にこもって、じぶんの知っているものに囲まれて、自分の意味づけした概念に囲われて、自分の検索した世界をサーフィンして、おなじ世界に閉じこもる。それは怖い話を聞いたあとに布団にくるまったときのような、ひとまずの安心感を与えてはくれるけれど、それは平常時なんかではなく、そうとうイレギュラーな状態であるということを、ぼくたちは普段どれくらい意識しているだろうか。

幼いころは、そうじゃなかったはずで、日々、知らないことがあって、もちろんそれは不快なこともあって、なんならつらいことのほうが多いかもしれないけれど、それがあたりまえで、それだからこそ毎日が世界観のリセットの連続で、いろんなことのバランスがとれていたはずなのだ。そういうことを、ぼくたちは自然と忘れてしまう。ひとりで暮らし始めたことが具体的にどんな意味を持つのか考えることなく、ぼくたちはひとりの世界に入っていく、現実的にも、比喩的にも。

無菌室のような自分の部屋では、よくないことはすべて「よくないもの」として現れる。じぶんにとってじぶんを取り囲む概念たちは、すべてわかりきったもので、つるつると滑るもので、だからもう、よくないものはすべてよくないもの以外の解釈を許されず、ぼくは蟻地獄のなかをおちこんでいく蟻のごとく、どこにもすがりつくことができず、奈落の底へと堕ちてゆく。

だから、無茶なことはせずにだれかに助けてもらうことに慣れていこうと思う。この世界には、ぼく以外のだれかしか知らないものもたくさんあるのだという前提をもっていれば、この世界の意味づけはいつだって仮の姿(「きっと石鹸」)なのだから、ふとした違和を起点に「話を進める」生き方ができるかもしれない。

すこし文芸誌に書いたこととかぶるような気もするけど、よくわからないことが起きたとき、それを1から10まで自分の世界に帰責しすぎないようにするためには、世界そのものをいつでも変化させられるような備えが要るのだ、というようなことが書きたかったのだと思う。

この世界には、きみもぼくも住んでいる——そういうことに、しておこう。
 

蛍光信仰(三題噺)

「君はなんのためにきてるの」


そのお姉さんは飾りつけの手を止めずに、そんなことをいった。


「なんのために、ですか」


一瞬、「なんのために生きてるの」と聞かれた気がしてしまったのもあって、答えるタイミングを失ってしまって、とりあえず復唱する。


「私たちは一体、なんのお祝いをしているんだろうね」


「なんの……。誕生日じゃあないんですか」


ぼくはお姉さんがなんの話をしているのかわからなかった。とりあえず、木々の間に、変な飾りのついた導線を通していく。途中、葉っぱが頭にひっかかりそうになって、慌てて身を屈めた。


「そう、誕生日というのはなんなのだろう」


お姉さんはまだそんなことをいっていたけれど、ぼくは次の導線をつなぐ木を確かめなければいけなかったので、それに応える余裕はなかった。お姉さんは、ぼんやりした口調のわりに、驚くほどのスピードで作業を続けている。ぼくもサボってはいられない。


……誕生日。


ぼくたちが定期的にお祝いごとをすることが定められた日のこと。前ということばが前ということばでしか説明できないのと同じように、君ということばが君ということばでしか説明できないのと同じように、誕生日は誕生日で、そこへ向かうことばを紡ぐことがぼくにはできなかった。


とにかく、飾りつけを終わらせなければいけない。また、あの光がやってくる。お姉さんはまだぶつぶつ言っていた。


「私たちが毎日見ているあの光。確かなのは、あの光があるおかげで、私たちが生きているということ。お祝いするのは当然、でも、ほんとうにそうなのかな」


あの光というのは、ぼくたちを照らしているあの神の光のことで、ぼくたちはそのために準備を進めているわけだ。今日は、光の終わりの日であり、光の始まりの日だから。あの光は、たくさん光る日もあれば、ちょっとしか光らない日もある。今日が、ひとつの区切り、誕生日なのである。


「この世界にしか生きていないんだから、この世界の摂理のなかで生きるしかないんだよね……


お姉さんのひとりごとを聴きながら、しばらくぼくは淡々と導線を木に結びつけていたが、ふと、違和感をおぼえて、目の前に残った木、木、木と、手許の紐を確かめる。どう考えても長さが合わない、余るならまだいいけれどこれは絶対に足りない……


後ろを振り返り、頭の中にぼんやりあった平面図と照合する。始まる前にお姉さんと確認した図。


「あっ」


原因がわかる。通らなくていい木を通ってしまった。お姉さんはぼくの声に一瞬こちらを見て、またすぐ自分の作業に戻った。どうする。今ならほどいてやりなおす時間はぎりぎりある……ほんとうにぎりぎりという感じだが……。周りをきょろきょろしても、誰しも自分のやるべきことに追われていて、ぼくが困り果てているのには気づく気配がない。時間だけがすぎる。


今からほどきにいくと相当面倒だ。たぶんどこを間違えたのかはぼくしかわからない。このままいこう。ぼくはそう言い聞かせ、どうやって誤魔化せば導線が足りているように見えるかを考えていた。


「少年少年、あの鏡の位置、あれでいいかな」


ふとお姉さんから声がかかり、ぼくは震え上がる。


「え、え、ああ、いいんじゃないですか」


「ちゃんと見てないでいってるでしょ。けっこう角度調節が繊細だからさあ、いっしょに確認してよ」


お姉さんは上着のポケットから図面をとりだしながら、ぼくのほうに歩いてくる。


「うーん、えっと、これがここでしょ。この位置からあれが見えてるってことは、これでちょうどいいのかな」


鏡を覗き込んでは図面を確認して、難しい顔をするお姉さん。ぼくはただただ、導線の張り方を間違えていることがバレないか、気が気ではなかった。


「こんな複雑な配線、昔の人はどうして考えついたんでしょうね」


ぼくはお姉さんの思考のリソースを少しでも圧迫するため、適当にそんなことを聞いた。こういうとき、話題を思いつくのが上手になればいいのに、と思う。


しかし、問うたことがぼくの疑問だったのもまた事実だった。縦横無尽に張り巡らされる、導線と鏡の迷路。ぼくたちはそれを配線と呼んでいたけれど、こんなに入り組んだ編み模様を、一朝一夕に思いつけるとは、とても思えない。


「私はリケイじゃないからわからないけど」


お姉さんはそんな前置きをした。ぼくにはまだよくわからないけれど、このお姉さんは大学というところに行っていて、そこで見聞きしたらしい難しい話を始めるときはときどきそういう留保をする。何度かしか顔を合わせていないけれど、このお姉さんはなんでも知っている。それなのに、どうして自分を低く紹介するのか、ぼくにはよくわからなかった。


「光の線と、リアルな導線、この組み方は、ほんとうに複雑なんだけれど、ある目的のために最適化された方法らしいんだよね。それがなんの最適化なのかはよく知らないけれど、おなじようなことをやみくもにやろうとしたら、この3倍も4倍もごちゃごちゃした配線になるらしいよ」


この3倍も4倍も。ぼくにはとてもじゃないが想像はできなかった。


「これはまだ、シンプルなほうだってこと」


「そうね、というより、なにかをシンプルにするためにベストな複雑さを持っているんだよ」


お姉さんのいっていることは、禅問答のようだった。


「この向こうに、なにかがある。私たちがやっているのは、手段の部分」


簡単なものを生み出すためには、複雑な方法をとらなければいけない。ぼくはなんとなく、さっきの配線を間違えたままにしていることは、もしかしたらとんでもないことなのではないかと思い始めた。


「あの光を正しく誘導できなかったら、どうなるんですか」


「わからない。だから私は、その先になにがあるのかを知りたいんだよ」


ぼくは頷きならがら、そろりそろりと適当な木に移動して、残りの導線をくくりつけた。もうどうしようもない。話しているあいだに時間も経ってしまったし、諦めよう。


「私たちは、『誕生日』のためにこのお祝いをする。なんども繰り返せるものというのは、複雑だからこそ、繰り返せる。これが繰り返しなんだってわかる。だけど、その先に、繰り返してまでやりたかったことがあるはずなんだよ」


お姉さんは、いちばん奥の鏡の角度を微調整している。光はここから入ってきて、まずこの鏡に反射する。あとは順々に鏡をめぐり、導線の回路とそれぞれ絶妙なタイミングで気が流れてゆくのだ。


「まあこんなもんかな。なんとか間に合ってよかったよ」


間に合ってないんだけど……まあ仕方ない。そろそろ、あの光がやってくる。その訪れはぼくたちには、どうしようもないのだ。


「あの光は、どうして日々移りゆくのかって考えたことはない?」


お姉さんが、光のやってくる方向を見つめながら聞いてくる。


「どうしてもなにも……そういうものなんじゃないですか」


「多くの学者が調べているけれど、原因はわかってない」


「闇の中ってわけですか」


「光の中って感じかな。ただ最近の研究で明らかになったことがあって、あれは本来変化するはずがない光だということ……


変わるはずのない光が変わってゆく。そういわれてもなんだかピンとはこない。ぼくたちの生活は、時事刻々移りゆくあの光を基準に営まれている。なんなら、時事刻々ということばがあの光で決まっているといってもいい。あの光が変化しないというのは、それこそ、時が流れないというようなものだ。


ぼくが話を理解できる形に落とし込むのを、光のほうは待ってくれなかった。不思議な白色光が、輝き始めた。


   ☆  


「いかにして管理するか、それが問題なんだよ。ぼくたちは太陽の生まれた日をお祝いして、それがいつかクリスマスになって、二千年以上続いてる。光というのは命の源だ。だからそのくらい、光の生まれる日を信じるというのは、生き物にとって強いモチベーションなんだ。だからそれを利用すれば、どんな複雑な回路も彼らは組んでくれる……そう信じてたんだけど」


「ぜんぜんプログラム走らないじゃないですか、失敗ですよ失敗」


「おかしいなあ、こないだやったときは何度も成功したんだけど」


「はいはい、言い訳はいいから。人工知能に擬似宗教をつくりだすなんて無謀だったんですよ」


「なんでだろうなあ、どこの世界にも、サボる奴はいるんだなあ」


「やっぱり手抜きせずに、自分で配線を組みなさいってことですね」


「ちぇ、いい方法だと思ったんだけどな……」




#創作三題噺深夜の60本一本勝負_20161223
21:00-22:00
妖怪三題噺( @3dai_yokai )から以下のお題をお借りしました。 
「誕生日」「蛍光」「方法」

22日目のアドベントカレンダーをはじめるよ

はじめに夢日記。

結婚後ののび太がやってきて新婚生活についてのブラックジョークを言っていったり、イノムと浄土宗は法然だっけ、みたいな話をしたりする。日本史選択じゃないから〜とこういうときだけそういうことをいってみる。起きてから思い出すと彼も日本史やってたか記憶が定かじゃないが。ちなみに浄土宗の話くらいは中学で習う、というかじゃなきゃ夢に出てこない‥…あと母親に怒られたりする、家の間取りが小学生時代の家。布団から這い出して眠いので隣の部屋でごろごろしてると、千代恋がやってきて、隣の田中さんの家に間違って荷物が届いてるかもしれないというので、二人で取りに行こうとして、でもパジャマだからと気づいて着替えようとして、よく覚えてないけど隣の田中さんの家に行く前に場面は転換した。気づくとクラス替えをしている。知らないクラスはいやだなあ、1組がよかったなあと思う、中学のとき3年連続1組だったからその記憶の残滓だろうか。新しく知り合った隣の席の女の子がとても優しくしてくれてテンションがあがるも、しばらくして「あの人はネカマだよ」と教えてもらってテンションがガタ落ちする。どう考えても現実に話をしてるのでネカマとかありえないのだが、そうした整合性は夢ならではである。夢のなかとはいえ結構本気で落ち込んだ。どんより。夢でよかった。あとなぜか黒崎さんが出てきた記憶もある。起きる直前のことはよく覚えていない。

おはよう。ここまでは実話、いや夢だから実話じゃないけども、とにかくね、それじゃあ12月22日のアドベントカレンダーをはじめるよ。

いやはや、夢というのは不思議なものだ。起きたらすぐに消えてしまう。断片はおぼえてるんだけど、すごい勢いでリアリティを喪っていって現実のロジックに暴力的に書き換えられる。昨日の夜より今朝の夢のほうが最近の出来事のはずなのに、ボクたちは昨日の夜のほうだけを覚えてて、夢のことは忘れてしまうんだ。

つまりさ、こういうことがいいたいんだ。ボクはずいぶんといろんなボクの連続で生きているような気がしてて、たしかにいろんなボクがいるんだけど、そのときに名指されるいろんなボクっていうのは、ボクボクボクたちっていうとただの一人称複数になっちゃうから、インドネシア語式に重ねてみたよ!でも「われわれ」もただの一人称複数だね……)のなかでも、やっぱり強いボクボクのことを思ってる。

今日は雨も降って、春みたいな気温だったからさ、春のボクが呼び出されてきて、不思議な感じだったんだけど(あほ山とばか山のあいだを通りながら、あ、山が禿げてるなあ、冬だからか、と気づいたのは、今日が春みたいな気候だったからかもしれない)、それでも、春夏秋冬のボクというのは、互いにべつのボクでありながら、それでも主流派のボクなんだよね。なんかもっと、夢のなかのボクみたいな、儚いボクもいるんだろうなって思った。

もちろん簡単にそいつらは出てこない。ブログを書くボクは、いくつかいてもやっぱり書くボクボクでしかなくて、そうそうマイナなボクボクに筆を執らせることはできないけれど、とはいえそれでも、毎日アドベントカレンダー妖怪が見張っててくれたおかげで、アドベントでもなければ書かなかったようなボクボクをたくさん呼べた。というか、全記事がそうだろう。ほとんど自己満足ではあったけれど、なかなか楽しかったよ。まだあと数日あるけど。

いろんなボクを呼ぶためには、それを呼ぶための文脈が必要で、その文脈を置くためには、なんていうんだろうね、それなりに安心感がないとできない。風呂敷を広げるためには広いスペースが必要で、怖くてガチガチに固まってるときってさ、とてもじゃないけどそんな場所を確保できないんだよね。

ボクはこの2年間、ずっとローカルであろうと言い続けてきた。よくおぼえてないけど、2年前にねぎくんと通話してたときにどちらからともなくそんな話になったんじゃなかったかな。あのころのボクというのはほんとうに世間というものが怖くて、社会というものが怖くて、その怖さはアカデミズムへの怖さと、おなじ構造を持ったものとしてボクのなかで重ねられていた。だから、そのころのボクにとって今よりずっと、そういう問題が切実だったのはなんとなくおぼえてる。

ローカルに生きるというのは、ボクひとりで生きないということであり、そして同時に世間のなかでも生きないということだ。いっけん無茶なようだけど、それを無茶だと思うところですでに罠にはまってる  ボクと世界という二元論にさ。たとえば市場原理信仰や科学信仰が強すぎて、そこから脱出するために極端に「ボク」に閉じこもる道へ進んでしまうみたいなこと。たとえば「社会に流布した価値観」を否定したいだけなのに「ボクさえ良ければなんでもいい」という独善的な思想を採ってしまうみたいなこと。

「『普通』の世界のすくいかた」から距離をおきたいのであれば、とりあえずは「ローカルな世界のすくいかた」を試すだけで良い、やけくそにならずとも、「仲間はたくさんいる」んだ、と、それがたぶん、2年前くらいに考えたり書いたりしてたことだった。時間が経ってみれば、ずいぶんと当たり前のことなんだけどね、あのころのボクはほんとうに疲弊してたんだ。

なんだかんだいってボクたちは、なんらかの価値観に身を浸すしかなくて、それはひとつより2、3あるに越したことはないんだけど、注意しなきゃいけないのは、それは「2、3」だからいいのであって、なんでもかんでも相対化して、ひとりで世界に立ち向かおうなんてしないほうがいいんだ、たぶんね。そしてその選んだ先というのは、間違いかもしれない、なんなら絶対に間違っている、ボクたちは神じゃないから、かならず間違う。だけど、間違わないことを目指すためにひとりになるよりは、間違っていることを織り込んで生きていくほうが、正しいとはいわないまでも、少なくとも「ボク向き」なんだと、そういまは思う。

数撃ちゃ当たるじゃないけどさ、いろんなボクを呼んではじめて、うまくいくこともある。それができるくらいには安心させてくれる場所がいくつかあって、ボクは本当に感謝してる。かっこうつけずにいえば、いい友達がたくさんいる、ありがとうってことだよ。これを読んでるだろうひとも、まず読まないだろう人も含めてみんなね。三日坊主なボクが22日もブログを書き続けられている(4年半の練物語史上、過去最長記録!)のも、キミたちのおかげだよ、ありがとう。

いつも心に中二病というのなら、まずはこういう中二病を、持って生きていこうよ。ボクはそうする。こちらからは以上だよ、厨二スピリッツにあふれるボクよ、還ってきたときに、また会おう。

できること

先週、2回連続で休講になった授業、先生がインフルエンザにかかっていたらしい。気をつけねば……。そういうわけでゲストスピーカーさん(代がかぶっててもおかしくないくらいの近い先輩だった)が改めてやってきて、いろいろお話があった最後に、アートのオークション、それもお金以外のものを使ったオークションをやってみましょう、というワークショップが行われた。

じっさいにアーティストさんがこうこうこういう作品ですと作品をプレゼンし、学生がそれにお金以外のもので入札していく。お金以外なので最後まで順列がわからない。インスタで写真を載せます、その作品がつくられるまでを描いた演劇をやります、100人規模のセミナーで時間を提供できます、実家から送られてきた箱いっぱいのみかんをあげます、歴史があるものつながりでへそのおと交換します、などなどいろいろ意見が出たが、「ぼくはつい作品に込められた物語を忘れてしまって、今回まわりを見てないことがよくわかったので、このスマホと交換します」というひとがいて、そのひとが落札して終わった。

スマホ、ほんとに渡しちゃっていいのか……??? と思ったけどまあそれはいいけど(よくない)、いろいろいわれてもつい脳内で金銭に換算して順位づけしてしまう癖が抜けず、貨幣から自由になるのは難しいなあと思った、というそれっぽい感想もまぁわりとどうでもよくて、ぼくがその模擬オークション(?)中ずっと考えていたのは、「自分になにができるか」をパッケージ化する度胸がぼくにはないなあということだった。

バイトしてるときとか、フリーペーパーの手伝いしてるときなんかによく思ってたけれど、自分のちょっとした能力みたいなの(ほかのシンプルな言い方がないのでとりあえず便宜的にそうかく)が発揮されるときって、ぜんぜん本業じゃないところ、つまり蕎麦をつくったり勉強教えたりとはぜんぜんべつのところで、食塩水の問題よろしくつゆの濃度を暗算できたり、エクセルで簡単な原価率計算表をつくれたり、pdfを結合するフリーソフトの存在を知ってたり、無許可で外でチラシを配っちゃ(ほんとうは)いけないということをわかってたり、文章を切り刻んで整理することに慣れていたり、その程度のことにすぎない。

そういうことが積み重なって多少は無価値ではない人間になったような幻想をみることはできるかもしれないけど、それは小さな問題がおきたときに「たまたま」対処できたり、小さな問題が起きることを「たまたま」予防できたりする程度のことであって、なにも問題が起きていないときに改めて聞かれて「ぼくはこういうことができる人間です」といえるようなものではない。だれしもそうだと思う。

もちろん能力というのは結果のことだから、それがもとから実在的にあるというのはそもそもへんてこなのかもしれないが、今回の「その作品をもらう代わりに、提供できるもの/こと」という文脈では、どうしても事前にパッケージ化することが求められるし、であればその枠組の中では確かに意味を持った「問題」になる。いっそ、これが比喩であれば、つまり現実中の会話なりのコミュニケーションの話であれば、たぶん文脈は相手とのすりあわせの中で決まっていくのだけれど、とはいえ、オークションの性質上こちらが声をあげるしかない。そこに金銭を使わないという縛りが入るのはなかなか面白い。文脈なしで使える価値こそ貨幣なのだから。

(ちなみにいえば、これはいわゆる就職活動などの場合とは明確に異なると思う、あれは向こうが使える人間を探しているというコンテクストがはっきりしているので、こちらからしかアプローチできないとはいえ事実上は先方がさきに声をあげている。)

自分になにができるか、をひとつの形式に落とし込んで、文脈抜きでひとに投げるような強さ、ぼくにはないなと思った。誤解のないように書いておけば、今日のような場ではなにかしら思いついたことはいったほうがいいし(それはコミュニケーションの問題だから)、考えること自体は楽しかったし、ほかのひとのを聞くことも含めとてもためになる時間だった。ただそれはそれとして、「できること福袋」を、コミュニケーションとは別のところで純粋につくることがぼくにはできない、ということを強く感じたという話で、それがいいことなのか悪いことなのか、書いててどんどんわからなくなったけど……どうだろうか、そういうのってみんなすぐ、思いつくものなのかな。

わたあめ前夜(三題噺)


「私、身を固めることになったんだ」

とても肌寒い日の夜、ぼくのもとを訪れた妹はそういった。今夜はほんとうに冷え込んでいて、ぼくはブランケットにくるまってぶるぶると震えていたので、妹がなにをいっているかわかるまでにしばらく時間がかかった。

「ええと、そう、それは、よかったね」

まずぼくの口から出てきたのはそれだった。

「わざわざここまで来るなんて、びっくりしたけど……そうかあ。どんなふうになるのかな」

妹が会いにくるのは久しぶりだった。特に、ぼくが雲にいるときに訪れるなんてことはあまりなかったはずだ。彼女としゃべるのは、地上でのことが多い。

「まだ完成形は決まってないんだけど……ひとまず固まってみることにした。たぶん、白い飴になるんじゃないかな」

「白い飴、いいじゃん」

「そうなのかな」

珍しく妹は歯切れが悪かった。

「だって、白だぜ。世の中には黒飴とかあるけど、あんなのど飴なんかとちがってさ、白は素敵な色じゃんか。それに白は……ほら、お祝いの色じゃんか」

ぼくは苦し紛れに適当な印象操作をする。たしかにこの下の国だと黒は喪で白は祝いごとって感じではあるけど、お隣の大陸にある大国では白は葬儀のイメージだったりするから、そんなのほんとうは文化による。

「そうだね、色はいいんだ。色はいいんだけど……」

彼女はことばを探してしばらく黙ったあと、ぽつりといった。

「お兄ちゃんはいいよね、どこでもいけるんだもん」

それは、妹の昔からの口癖だった。確かにぼくは、海にも空にも、この島国にもあの大陸にも、どこにでもいくことができた。あるいは、世界中を巡っていることこそが、ぼくという存在そのものだったのかもしれない。だけど、今日聞くそのことばは、いつもよりずっと重みを持って感じられた。

「私は、千歳飴にもなりたかった。この時期なら、クリスマスキャンディにもなれたかもしれない。ううん、もっとすごい、飴細工みたいな生き方もあったかもしれない」

ぼくだってわかっていた。ちゃかしてはいたけれど、本当に彼女が気にしているのは、白という色のことなんかじゃなくて、水飴から飴へと固まってしまうこと、ひとつの形をとってしまうことへと怖さなのだ。それは、いつまでも世界を循環しつづけて、ひとつの姿に身をやつすことのできないでいるぼくにはよくわかった。

「私はお兄ちゃんみたいに、世界中のひとにわかってもらいたかった」

彼女の告白をきいて、ぼくは自分が彼女にかけることばを持っていないことに気づいた。彼女のほうが、ぼくなんかよりずっと悩んでいたのだ。ぼくが世界中で逃げ続けているあいだに、この子は……。

「世界中にいったって、もう誰もわかってなんかくれないよ。この国は水不足だって忘れてるし、それよりは」

それよりは、おいしいキャンディでも口に入れたいと願っているだろう。ぼくのことなんて、誰も気にしていないのだ。ぼくはなんにでもなれたが、なんにもなれなかった。

「白の本質は〈塗れる〉ことだと思うんだよ」

「お兄ちゃんの本質は〈濡れる〉ことだね」

「妹に下ネタいわれると反応に困るんだよなあ」

「下ネタじゃないよ!」

わかってるわかってる、雨のことな。

「つまりさ、白いっていうのは、これからなにか別の存在がやってきたときに、塗り変えられる備えができているってことだと思うんだよ」

ぼくは話を戻し、独白を続けた。

「ぼくみたいなやつは、純粋であること、純水であることを、最後の砦にしてる。だから、見慣れないものは必ず不純物になってしまう。どんな固有の世界も、ぼくにとっては自分を〈濁す〉ものでしかない」

透明というのは、向こうが見えるということであり、そこになにかを加えるというのは見えなくなっていくということ。存在価値を失うことである。ぼくは、不透明になるのが怖かったのだ。それこそ白色だとしても、目に見える存在になることが怖かったのだ。ぼくが自分を濁されることを恐れている間に、飴はこんなに大人になって、これから、鮮やかに生まれ変われる準備を整えた。そういうことなのだと思う。

「お兄ちゃんだって……というより、お兄ちゃんのほうが、なんにでもなれるのに」

「なんにでもなれるということと、なんにでもなれる準備をしていることは、たぶん大きくちがうんだよ」

ぼくはそんなことしかいえなかった。この子は昔から、ぼくに甘えるのがうまかった。それは飴だからかもしれないし、妹だからかもしれない。今日もぼくに、なにかしらの形で甘えにきたのだろうけど、残念ながら、そんな妹にぼくのほうが甘えてしまったのかもしれない。いつだってそうなのだ。

「お兄ちゃんに会いにきてよかった。私たぶん、わたあめになるよ」

「わたあめ」

ぼくは無意識に復唱して、ゆっくり上を見上げる。この子は、ずっとずっと、なんにもできなかったぼくの姿を見てきたから、なにかはできる存在になることを決めたのだと思う。末っ子というのは、そういうものだ。強かで、現実をまっすぐ見つめている。もちろん、本人にそういっても、白々しく白をきって、そんなことないよというのだろうけど。

「私、こんなふうに、ふわふわで真っ白な、わたあめになる。初詣の屋台でもいいな」

ぼくは、ふわふわな雲を見つめながら、なにもいえなかった。

「小さいころ、お兄ちゃんが私に言ってくれたこと、覚えてる?」

どんなこと、とぼくは真っ白な天井から目を離さずに訊ねる。

「『飴には、人を幸せにする力がある。ひと一人分の幸せを、お前は持ってるんだよ』」

 *  *  *

空が白んできたころ、妹は帰っていった。

ぼくはゆっくり立ち上がり、雲の下の世界を見下ろす。
ここは肌寒いけれど、地上も今日は冷えているのだろうか。

「氷点下になってたらいいな……」

なんだか今日は無性に、白に染まりたかった。



#創作三題噺深夜の60本一本勝負_20161220
21:00-22:00
妖怪三題噺( @3dai_yokai )から以下のお題をお借りしました。 
「飴」「同胞」「白」

学生を語る語彙って意外と豊かではないのかもしれない(2015年の手記)

アドベント書く時間がないので(?)ちょいとずるいですが1年以上前に下書き段階で公開していなかった文章を放流しておきます。
いまとなっては当時感じていたリアリティがわからないのですが、それだからこそ逆に残しておく意味もあるかもしれませぬ。

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よい日だった

(日記断片、ハイコンテクスト、わかるひとにさえわからない)
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2016年12月16日

12月16日、金曜日。晴れ。洗濯機を回してから大学へ行く。本当は干してから行く予定だったけれど、干してると間に合わないので諦める。ひたすら川沿いを歩いて行く。自転車が今年三度目のパンクを起こしてから数ヶ月歩いて通っているのだけれど、自転車より歩くほうが気分が良い。冬は特に。道のせいもあると思う。

おにぎりとかパン程度なら食べる時間がありそうだったので、売店で適当に買って最初の授業の教室に急ぐ。今日はゲストスピーカーが来るんだったな、と思いながらドアを開けるとやたら人が少ない。おかしいな、前回休講だったのにまた休講なのかな、とパンをもふもふ食べていると、後ろのほうにいた子が「休講だって〜。とりあえずごはんだけ食べる」といってるのが聞こえてきた。また休講かい、ゲストスピーカーさんはどうなってしまったんだ……と思いながら、ぼくもとりあえずごはんだけ食べようと思ってもふもふする。一応正確な情報も調べて、たしかに休講情報が出ているのを見る。

そのまま場所を移動して、今日返す予定だった本を(持ってたので)読み始める。面白いので、返すのをやめて延長することが決まった(こうして返せない本が増えゆく)。近くで女の子が恋バナもどきをしているのが聞こえる。こういう空間で本を読むのがほんとうに好き。そういえば一昨日は似たような状況で誰かが逃げ恥を見はじめたんだったな……と思い出す。場所を変えたりしつつ時間になったので次のクラスへ行く。

休憩挟みつつも4時間ぶっつづけの枠で、きりすときょーがいろん。キリスト教系の大学にはけっこう同名の科目があるけれど、この大学の唯一の必修科目である(1年次の英語を必修と呼ばなければの話だが)。なんでまだ必修をとってなかったのかといわれると「とってなかったからとってなかった」としかいいようがないんだけど、まあ結果的に好きな先生のきりがいがとれてよかった。

授業は19時まででなのだが、今日はしょっかれーはい(検索避け)があるので早く終わりますといって18時すぎに終わる。18時半に始まると先生がいうので、図書館で一冊本を借りてから教会へ向かう。もう半が近いし入れるだろうと思ったぼくは、なにを思ったのか、裏口から入ってしまう。なんかまだぜんぜん始まってなくて、めっちゃ準備してて、ロビーに行ったら出入口閉まってるし受付の人は挨拶の練習とかしてるし、ぼくも関係者だと思われたのかなにもいわれなかったけど、これはやばい!!と思ってそそくさと逃げ出す。ひどい体験をした、100質のマヌケエピソード、これ書くべきだったと強く思った。

改めて正面に戻る。午後七時とでっかい看板が出ている。なんてこった。たぶん、18時半に開場なんだろうね。まだ待ってる人はちらりほらりしかいなかった。微妙に列ができはじめ、次に来た人に「(列は)ここですか?」と聞かれたので「そんなにちゃんと並んでないと思いますよ」と答えたところで扉が開く。受付の子たちから式次第とろうそくをもらう。ろうそく! ほんとに馬鹿な話なのだけど、「そうか、しょっかれーはいだから、ろうそくもらうのか」と思った。入学して何年経ってるんだって話だ。

この教会いつぶりだろう、入学式以来か、だとすると5年近く前か、ひええ、時の流れ! 「全員お揃いですか」という質問に自信なさげに「はい」と答え(1人も全員……1人も全員……)、前方に案内してもらう。待ち合わせの人がまだで……とロビーで待つ人も多かった。あまりに到着が早かったので、最前列に座れる。しばらくの間はあまり人が増えなかった。隣の子に話しかけてみると、さっきのおなじ授業をとっていたようで、ぼくとおなじく先生が「18時半から」っていったのに引っかかって早く来てしまったらしい。おかげで最前列に座れたのでまあ良かった、とぼくは思っていたけど、最前列だとほかのろうそくが見られない、とその子にいわれて、それは確かにそうだと思った。

そうこうしているうちにだんだんと人が増えて来て、管弦楽団の人たちが入って来る。めっちゃ近い。ほとんど指揮者が真横である。こんな近距離でオケを聴く機会あんまりないな……と思う。

パイプオルガンが響いて、礼拝が始まる。パイプオルガン! こないだの100質のせいでコナンを思い出してしまう。そういえば中学高校のミサのときは、キーボードだったけど、あれはなんだったんだろう、シンセサイザー? 電子オルガン? 懐かしいなあ。一気に十代にリンクされる。

(*中高はカトリック系なのでミサでしたが、ぼくがいまいる大学はプロテスタントなので礼拝はありますがミサではありません)

ルカによる福音書の、イエスが生まれるときの話が少しずつ読まれて、合間に管弦楽と合唱。そういえば、中高のときは吹奏楽しかなかったから、こういう場は合唱とオルガンだけというのが多かったけど、こういう場で管弦楽ってめっちゃいいなあ、と思った。音楽のことほんとうにわからないけど、ばよりんぞく好き。福音書、英語だけじゃなくてドイツ語とか北京語とかマンジャク語でも読まれるのが良かった。

じょいとぅーざわーるどの日本語2番以降の歌詞ってこんなんだったのかあと思ったり、先生のありがたいお話で「アドベントということばを聞いたことがあるのではないでしょうか」ということばが出て来て「ああああああ」ってなったり、しているうちに部屋が暗くなって、キャンドルが点火される時間になる。

ぼくの中高では中学1年生だけがキャンドルサービスをやる伝統があるので、今から11年前のクリスマスにはやる機会があったのだが、ぼくはたまたま文章を読む役を任されていたので、キャンドルやらなかったなあ、とか思い出してた。そのあとは見るだけだったけどじゅうぶんきれいだったし、それですらもう6年くらい前の話なのだ。まったく、不思議な話だ。

そもそもカトリックとプロテスタントだし、この大学の場合はアメリカ経由で来てるからその意味でも中高のそれとは来歴もぜんぜんちがうし、それはそうなんだけど、これだけ変化しても「帰ってきた」感を得られるあたりさすがは<変化しつづけることで同一性を保ち続けることに成功した普遍宗教>だなと、やたらローカルな規模でそんなことを思った。

いやたぶん、宗教云々の話以前のことだと思うけど。昔なぎささんが「どこにいってもいいんだよ、オーケストラはどこでもできるからね」といったときに、ぼくはそうやってどこでも同じことをしたいというものを持っていなかったのでたいそう羨ましく感じたけれど、そういう、どこにいっても同じ感というのは強いし、いざというときにめっちゃすくわれるなあと思った。

なんにせよ来て良かったな、と素朴に思った。なんでみんなしょっかれーはいにこんなぞろぞろと来るのかはわからないけど、たとえばもし、ろうそくがきれいだから、音楽が素敵だから、なんかみんな集まっていい感じだから、という理由だけで来ている人が一定数いたとして、それでこれだけ人が集まるのなら、それだけでじゅうぶんにすばらしいことのように思えた。

「メリークリスマス」
ぼくはろうそくの火を吹き消した。


回れよ回れ(三題噺)

「起きてください」

心地よい眠りだったような気がするのに、俺はそんな声に起こされる。目を開けると、一匹のハチが鼻に止まっていた。思わず、目を見開く。叫ぼうか、慌てようか、と迷ったあと、ここはおとなしくすることにした。

「ご心配なく、私はあなたに危害は加えません。針は大切ですからね」

ハチはそんなことを言って、鼻から飛び上がり、空中を旋回する。ハチの動きにつられて周りを目線を動かして、ようやく周囲の状況がわかる。白い。ひたすら、白い部屋にいる。壁も、床も、天井も、なにかの間違いのようにように真っ白だ。

ただひとつの例外といえるのは、俺の足元の方向にある巨大な窓だった。俺は上半身を起こしてその窓をのぞいてみる。これまた、気味が悪いほど均整のとれた、まんまるの窓。そしてその向こうに見える風景は、なんだかよく見えない。窓の外が屋外かどうかもよくわからないが、天気でも悪いのか、あるいは夜なのか。それは暗いというよりも、混濁しているように思えた。

「誰しも人生のうち一本だけは物語が書けるといいますね」

ハチが唐突にそんなことをいう。

「自分の生涯を語るストーリィのことですね」

俺が反応しないのを見て、ハチが補足説明を加える。なにか返さなければ、こいつはこの調子で演説を続けるのだろうか。俺はそんな話などどうでもよかった。

「ここはどこだ」

改めて疑問を口にしてみると、ずいぶん間抜けなかっこうになった。俺は慌てて、自分の考えを付け加えた。

「つまり、ここは死後の世界なのか、という意味だ」

「死後、ふうん。ぶんぶんぶん」

ハチはそれだけいって、また黙って俺の周りを旋回する。黙っていても、ぶんぶんとうるさいのだが。

俺は、今度は後ろを振り返る。あいかわらず真っ白な壁だったが、床にお盆を見つける。相変わらず真っ白だ。お盆にいくつか乗っているあの杯はなんだろう。なんの変哲もない杯だが、俺はどうしてだか興味をそそられた。

「ここが死後の世界なら、あなたの物語は誰がきくんでしょう、私ですかねえ」

ハチのことばを無視して、俺は訊ねる。

「あれはなんだ」

「あれですか、あれはねぇ、わかりやすくいえば、洗剤ですかね」

洗剤。俺は手を伸ばし、杯をひとつとって顔に近づけてみる。なんだか甘い匂いがする。たしかに洗剤の香料にも思えるけれど、これはどちらかというと……。

「蜂蜜?」

その連想は、あるいはぶんぶんと俺の周りを飛び回るハチによるものだったのかもしれないが、いずれにせよその杯を満たしている液体は、どうも口に入れられるようなものの気がしたのだ。いや、というよりも、これは、俺がずっと飲みたかったもののような気がする。

「飲んでいいか」

「ええ、いいですよ。あなたのものです」

俺はハチのことばを待つまでもなく盃を呷った。素晴らしい甘さが舌を通して脳を刺激する。これだ、という気持ちとともに、視界がクリアになっていく。視界……?

窓のほうに目をやって驚く。窓の向こうが、霧が晴れたようによく見えている。そして、そこに見えるのは俺がよく知っている、会社の風景だった。そしてそこに、俺の姿が見えた。

「あれは……」

「回れよ回れ思い出は、ってとこですかね。ぶんぶんぶん」

だめだ、こいつはぶんぶんしか答えない。

窓の外のオフィスには、「俺」以外の姿はないようだ。俺は俺自身の姿を真横から見る形になる。この眺めは、部長の席の真後ろにある窓からの眺めだろうか。「俺」はパソコンに目を向けているが、どうも落ち着きがない。そしてそのままマウスを動かし、震える手でキーボードを叩いている様子が目に入ってくる。

「ああ、これは……」

思い出した、いや、思い出すまでもなかった。

「なるほど、最後のなんちゃらってわけか」

俺はハチのほうを向く。もっとも、ハチは飛び回っているので、視界からは一瞬で消えてしまうのだが。

「いえいえ、そんなややこしいことではありません。これは洗濯機ですよ」

「洗濯機?」

最後のなんちゃら云々というのは少し特定の宗教に寄りすぎかもしれないが、とはいえ何かしらの意味で、俺が裁かれる場面にあるものだろうと思っていたのに……洗濯機?

「ええ、そうですよ。あなたはいま、自分がしたことをよく理解したはずです」

たしかにそうだった。そして俺は心から、自分のしたことを悔いた。生まれて初めて−−死んでようやく。

「だからこそ、これはなにかそういう儀式なのかと」

「儀式なのは儀式なんですけどねえ、だれもあなたを捌きはしませんよ。まあ、面倒なのでほかのも飲んでください」

ほかの、というのは杯のことだろう。俺はいわれるがままにそれを口にした。2杯、3杯。ガムシロップのような味のものもあれば、和風の懐かしい味のものもあった。その甘さが全身に染み渡り、俺はこれ以上ないくらいに心が澄み切っていくのを感じた。いまならなんでもできそうだ。

「なるほど、これは洗濯機、そしてこれは洗剤なんだな」

「そういうことです、今日も今日とて、説明する手間が省けました」

暇だからときどき先に説明しちゃうんですけど、とハチはぶんぶん続けた。

「俺はここで心を洗われ、次の世界に生まれ変わる」

「そういうことです、なぜなら……」

「なぜなら、さまざまな思想のシロップは、良くない思想と混ざり合う」

「そうです、さながら……」

「さながら、油汚れを落とす洗剤のように」

残りの3つ、4つの杯も全て飲み干す。俺はこの世界の真理に到達した気がした。それをハチに話しても無駄だろう。こいつに理解できるとも思えない。

「はあもう、そういうのがいやなんですよ、けっきょく私の存在意義がなくなっちゃいますからね」

「見えるは、わかる。わかるは、見える。だからこその、思想のシロップ」

素晴らしいと思った。このまま、あらゆる思想が俺に染み渡った状態で次の人生が始まれば、俺は全てを動かせる。自らが小さな悪に手を染めることなどないばかりか、世界に平和をもたらすことだってできるだろう。この思想、この心があれば、きっとできる。俺には確信があった。

「ともかくこれで、あなたは真っ白に生まれ変わるわけですね」

ハチがなにかぶんぶんいっているが、知ったことではなかった。なんて素晴らしいんだ。これだけのものが見えれば、文字どおりに完璧じゃないか。俺には全てが見える。窓の外も一段とクリアに見える。なにやら大男が立っているのが見えた。

 *     *     *

「汚れ、ちゃんと取れたみたいだな」

神は慣れた手つきで、「脱水・乾燥」ボタンを押した。



*回れよ回れ思い出は:「観覧車回れよ回れ思い出は君には一日我には一生」栗木京子)

#創作三題噺深夜の60本一本勝負_20161216
22:30-23:30
妖怪三題噺( @3dai_yokai )から以下のお題をお借りしました。 
「蜜」「洗剤」「窓」




「ヘンな100の質問」に答えてみた(後編)

こないだの続きです。問題原文はこちら
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願いの人形(三題噺)

「ぼく、これ鳴らすの子どものとき好きだったなあ」

「あ、わかる。あたしも」

俺の前を通りすぎていったふたり組が、大げさな手つきでがらがらと鈴を鳴らす。つづけて、おのおの肩にかけた鞄から小さな人形を取り出す。俺の目からでも、人形に光沢があること、材質が木でないことがわかる。最近はどいつもこいつも、自然の素材を使ってこない。まったく嘆かわしい話だ。

ふたりはしばらくお互いの人形を眺めていたが、そのまま賽銭箱の中に落とした。女は財布から小銭を投げ入れ、男はポケットをまさぐって小銭を取り出し、同じように投げ入れる。

ぺこり、ぺこり、ぱん、ぱん。不揃いに礼と拍手をして、両手を合わせたまま目を閉じる。人間というのは、左手と右手で微妙に大きさや形がちがうらしいが、もちろんそれを厳かに確認している仕草ではない。

「なにお祈りした?」

「早いよ、まだ終わってないのに」

「あれ、ごめん」

「まあいいよ、だいたい終わったし」

「で、なにお祈りしたの?」

「教えませーん」

ふたりは楽しげに笑いながら、もと来た道をも引き返す。俺には目もくれずに通りすぎ、鳥居のほうへ。そうして、石段を降りていくところで、俺の視界からは消えた。今日はこのくらいで終わりだろうか。まったく、今日も今日とて退屈である。

「いやはやぁ」

と、本殿のほうから少女が飛び出してくる。

「まったく、近頃は身勝手な神頼みが多すぎるよねぇ」

少女の口ぶりは自己完結的で、特に同意を求めているというわけでもなさそうだったが、一応はこちらに顔を向けているので、俺はリアクションをとることにした。

「どんな頼みでも聞いてくれるから神様なんだ、ごちゃごちゃ言うな」

「別にアンタにいったわけじゃないよぅ」

やっぱりちがったらしい。

「そうはいっても、なんでも聞いてくれるから神様なんだってのはそれはそれで面白い話だよね。こうやって変なことを頼む先がいるからこそ、私はこうしてここにいるわけだしねぇ」

彼女はそういいながら、賽銭箱を開け、参拝者が入れていったふたつの人形を手にとる。目に近づけたり、太陽に透かしたりしていたが、やがて飽きたように元に戻した。

「どうだ、今日のは」

「どうもこうも、最近はずっとこんな感じだよぅ」

少女は片足で飛び跳ねながら、鳥居のほうへ進んで行く。シャツにジーンズにスニーカと、神社にそぐわない「現代的」な格好だから、こうして跳ねているところを誰かが見れば、近所の子どもが遊んでいると思うかもしれない。容姿だけでいうなら、歳のころ十四、五、といったところだろうか。もっとも、彼女の見てくれに関して歳の話をしても仕方ない。

「ふぅん、もう帰っちゃったかなぁ、ここからじゃ見えないねぇ」

どうやら石段の下を覗いていたらしい。

「わざわざ〈目で確かめる〉ような真似をしなくたって、お前ならどこでも、それこそ遠い世界の果てにいる奴の姿だって見ることができるだろうが」

「ふっふぅ、それを〈見る〉というのならだけれどねぇ」

少女はけたけたと笑い、右足を軸にくるりと1.5回転してから、こちらへ歩いてきた。

「アンタたち狛犬くんだって、別に生き物としての犬の目玉がついてるからこの世界が見えるというわけじゃないでしょぅ。語るためには視点が必要なんだよぅ」

相変わらずわけのわからないことをいう。

「何度も言わせるな、俺は獅子だ。あんな犬っころといっしょにするな」

「狛犬だよぅ。あっちとこっちで区別するなんて、めんどくさいもん」

どうせアンタのほうしか喋れないんだしねぇ、と少女はまた笑う。俺はため息をついた。こいつがこの姿で現れるようになってから、もうずいぶんと経つが、俺はいっこうにこいつの調子に馴染むことができずにいる。

「頼むから、たまにはまたジジイのカッコで出てきてくれよ」

「それはもう、人間たちに頼むしかないよぅ。狛犬くんも知っての通り、私がこの姿なのは、彼らのおかげなんだからぁ」

そんなことは百も承知である。こいつは、民衆の抱く印象によって姿形が変わる。昔々、まだこの少女が来ているこんな衣服がこの島国になかったころ、こいつはもっと威厳ある存在だった。いや、おそらく数十年前だってそうだったろう。それがどうしたことだ。

「私はこれ、気に入ってるんだけどねぇ。萌えっていうの? 最近はそういう神社もときどきあるらしいからねぇ。参拝客も増えて、いいことづくめだよぅ」

「おかげで、変な願いをしてくるやつも増えてるんじゃないのか」

そうなんだよねぇ、と彼女は先ほど放置した人形をもう一度、両手でころころと転がした。ちょうど、人間が竹とんぼで遊ぶような仕草である。

「もう、どっちがどっちかわからなくなっちゃったよぅ、こんなに似てるんだもん」

「また〈すりーでぃーなんとか〉ってやつか」

「3Dプリンタ、だよぅ。便利な世の中になったもんだよねぇ」

この神社には、昔から捧げものとして人形を置いてゆくという風習が残っている。それがどんな理屈に由来するものなのか、一狛犬にすぎない俺には知る由もないが、ともかく昔から人形が置いていかれるのである。

ところが、近年になって、人形がある理想形に近ければ近いほど、願いが叶いやすいという噂が流れ始めた−−らしい。俺も、参拝客の話をきいただけだけれど。それでも当時は、まだみんな手作りの人形を持っていたから、形も大きさもまちまちだった。理想形があっても、それを作ることなんてできなかったのだ。

「参ったなぁ。これじゃあどっちの願いも平等に叶えないといけないよぅ」

困ったようなセリフを、特に困ってもいない口調で口にする少女。同じ設計図をもとに3Dプリンタとやらで出力されたのであろう、二体のつやつやの人形は、俺の目からも瓜ふたつとしかいいようがなかった。

「ふん。人間の願いなんて、適当に叶えときゃいいのさ」

俺はこれまでにも何度もそう助言してきた。今となっては、ほとんど惰性である。

「そうもいかないよぅ。最近は、みんないろいろ考えるからねぇ。なんであの子はうまくいって、自分はうまくいかないの、とかねぇ」

「そんなもん、そいつの努力不足か、さもなきゃ運が悪かったのさ」

「その運を左右してるのが、私って思われてるんだけどねぇ」

「誰もが三者三様の人形をこしらえてたころなら、人形の出来不出来のせいにできたんだがな」

それだって、ずいぶん乱暴な話である。人間というのは、勝手なのだ。

「本当にそうだよぅ。こんなに似てるんじゃあ、片方の願いだけが叶ったときに、誰のせいにするのぅ」

少女は朗らかに続けるが、人形を手放さないところを見るとほんとうに困っているらしい。

「個体値、ってのがあることにすればいいんじゃないか?」

「こたいち?」

「前に、携帯ゲーム機っていうのか、あれで遊んでるガキがそんな話をしてたんだよ。同じ魔物でもそれぞれの個体で個体値がちがって、それはそういうもんなんだ」

「神聖なる神社でゲームなんてだめだよぅ」

「同じように見える人形にも、ちがう個体値がある。その個体値を割り振る存在がお前なんだ」

少女は理解したのかしていないのか、空を見上げている。いや、こいつが理解しないことなどこの世にあるわけがない。考え中といったところか。人間がそんなことで納得するだろうか。俺はすると思う。あいつらは、自分を特別な存在だと思うことにかけては他の生物を圧倒するのだから。

少女はしばらくそうしていたが、

「それで、いっかぁ」

ぽつりと呟いて、ポケットからマジックを取り出し、人形に数字を書き始めたのだった。



#創作三題噺深夜の60本一本勝負_20161214
21:45-22:45
妖怪三題噺( @3dai_yokai )から以下のお題をお借りしました。 
「個体値」「神社」「プラスチック」

いつも心にバタービールを。

べつにハリポタのスピンオフが絶賛公開中だからというわけではないのだけど、ホグワーツ行きたいよね。めっちゃ行きたかった。来年フランスで4日間「開校」するらしいけど。笑

魔法薬学、変身術、呪文学、薬草学、魔法史、占い学、天文学、マグル学、数占い学、魔法生物飼育学、闇の魔術に対する防衛術、古代ルーン文字!

実際にぼくが通っていたら、飛行訓練で大怪我してそうだし、変なお菓子たべて倒れてそうだし、「ぼくはほんとうはあの寮にいるべきだったんじゃないか……組み分け帽子も間違っていたのでは……」とかよくわかんないことを三年生くらいまで延々考えてそうだし、いろいろ大変そうだけど、まぁでも行ってみたかったな(まるでこの世界のどこかにあるみたいな口ぶりである)。あんなに実技があったらぜったいぼくやっていけない気がするんだけど、それでも行きたいと思うんだからなかなかのもんだ。

現実世界の話をすれば、大学で好きに履修を組んだり、先生が自分の本を買わせるために教科書に指定してきたりしたときに、「あ、これハリポタゼミでやったところだ!」って思うことがあって、そりゃあどこでも学校はそうなのだけど、なぜか「ホグワーツっぽいぞ」って思ってしまう。宗教関連の科目とか受けてると、神学っぽい話とか、聖書に書かれてることと史実のすり合わせみたいな話がでてきて「魔法史とかでこういうのありそう……」とか思ってしまう。本を読んでてもたまにある。原体験というのはふしぎである。

いやいや逆にいうと、そういうのを通してちょっとだけ妄想的に魔法使いになっているといえるのではないか。そうか、ぼくは魔法使いになるために勉強をしているのだな。

……だんだん怪しい感じになってきたけど、特にオチもない。ふくろう試験の勉強しよ……。

.

セロハンの街(三題噺)


怠け者にとって箪笥というのは、物を積むための台座と大差ない。洗ったセロハンをきれいにたたんで仕舞ったりなんてめったにしないから、ふだん使わないセロハンが箪笥に残されて、よく使うセロハンはベッドの端に乱雑にばらまいてある。さすがに年末にでも整理しないとな、と考えながら、僕は身支度を整えた。

玄関で靴を履く。時間にはまだ余裕があったので、逆にそわそわしてしまって、財布、携帯、と口に出して確認してみる。こんなことをしても、リストを作っているわけではないので、なんの確認にもなっていないのではないか、とぼんやり思う。ええと、いつも使っているセロハンはたいていカバンに入れっぱないしにしていたけれど、家を出る直前でせっかくの休みだしと思い直し、4、5枚の新品のセロハンの封を切った。まぁ、こんなものでいいだろう。

外は身を切るような寒さだった。ここ数日、びっくりするくらいに寒い。せめてもの慰めにと、暖色系のセロハンをいくつか組み合わせてはいるけれど、それが効果を発揮しているとは思えなかった。このテクニックを教えてくれた家庭科の先生に会うことがあったら、文句をいってやろう、と心に決めた。

石段をのぼり、大通りに出る。まだ寝ている人も多そうな時間ではあったけれど、道にはちらほらと人が歩いている。僕が気にしていたせいかもしれないけれど、赤やオレンジのセロハンをまとった人と多くすれ違ったような気がする。

一度も入ったことのないパン屋の前で、三十代くらいのおじさんがセロハン巻きを吸っている。僕はすれちがいぎわに自分のセロハンを少し剥がして、その煙をこっそりもらう。甘く懐かしい香りがした。自分で吸うことはないけれど、セロハン巻きの香りは好きだ。

街に向かう大通りは緩やかな下り坂になっている。僕はのぼり坂のほうが体のバランスがとりやすくて好きだ。だけれどこの道は、車のヘッドライトが道行く人のセロハンを照らしている風景を一望できるので、例外的にお気に入りだった。排気音とエンジン音。うまく響きあうものもあれば、ただうるさいだけの音もあって、それが僕の時間を無視するように何台も、何台も、通りすぎてゆく。通りすぎるという暴力的な登場をするわりに、しばらく視界のなかをずっと直進しているので、かわいいやつらだ、と思った。

駅が見えていたあたりで少し横に折れて、小道を進む。このあたりまでくれば裏道を通ったほうが早い。目的地の公園が遠くに見えて、目を凝らすともうすでに見知った顔がいた。腕のセロハンで時間を確認する。待ち合わせ時間にはずいぶんと余裕があるから、あいつも早く来てしまったんだろう。

「寒い」

待ち合わせ相手のトオルは僕を見つけるなりそれだけを口にして、そのまま黙り込んだ。これ以上しゃべるのも寒い、という意思表示のようだ。

「とりあえず『それいゆ』にいこうか」

彼が無言で頷いたのを確認して、そのまま公園を出る。こいつはどうも身勝手なところがある。寒いとわかっていたんだから、公園で待ち合わせなんてせずに直接「それいゆ」に集合すればよかったんだ。僕はなんだか腹が立ったが、たぶん寒さのせいだと思って、いちいちことばにはしなかった。

公園を出るところで、彼が立ち止まった。

「どしたん、はやく行こうよ」

彼の視線の先をたどると、お地蔵さんがある。公園の入り口に昔からある謎の石像だ。そのお地蔵さんの手や首にセロハンが巻かれている。寒そうだからと、誰かが巻いたのだろう。そのくらい寒くなってきたのだな、と僕は思った。そんなものを見せられては腹立たしい気持ちもどこかにやるしかなく、僕はカバンから今日封切りしたばかりの小さな朱色のセロハンを取り出し、お地蔵さんのお腹に貼りつけた。トオルが「そこかよ」みたいな目で僕を見たあと、彼はポケットから引っ張り出したくしゃくしゃのセロハンを、お地蔵さんの背中に貼りつけた。ぼくは「そこかよ」みたいな目で見た。

公園を出て、「それいゆ」に入店する。あたたかい。体が溶けてゆくような感じがする。僕は何枚かセロハンをはがして、ひと息つく。彼はホットコーヒー、僕はココアを注文する。コーヒーなんていう苦くて得体のしれない液体を、よくこいつは毎日のように飲めるものだ。

窓際の席だったので、注文を待ちながら外をぼんやり眺める。犬を連れた女子高生が、キラキラ光る黄色のセロハンをたなびかせながら横切って行った。

「このセロハンをぜんぶはがしたらどうなるのかなあ」

突然向かいに座ったトオルの声が聞こえて、僕はびくりとする。
慌てて彼のほうを向きなおるが、彼は店内を眺めているので、どうやらあの女子高生の話ではないらしい。

「ぜんぶってなに? どのセロハン?」

「いや、どのセロハンでもいいんだけどさ」

先にふたつめの質問にだけ答えて、またぼんやり、今度は天井を眺め始めた。
ほんとうに勝手なやつだ。

「お待たせいたしました」

店員さんがコーヒーとココアを運んでくる。

「どうも」

トオルはなにもいわずコクリと頭を動かした。
たぶん、店員さんには髪の毛が暖房の風で揺れたようにしか映らなかっただろう。

「で、ぜんぶってなに?」

僕は冷え切った手をマグカップで温めながら訊く。

「ぜんぶはぜんぶ。セロハンをはがしたときに何が見えるのか、気にならない?」

トオルはテーブルの端のセロハンを2、3枚ちぎってコーヒーに溶かす。

「いや、だから、ぜんぶってなに……? そんなことありえないだろ、つまりその、原理的に考えて」

〈原理的に考えて〉は、最近おぼえた便利なフレーズだ。

「でも、はがしたり貼ったりできるんだから、ぜんぶはがせば元が見えるはずじゃないか」

彼はまた新しいセロハンを手にとって、ふたつに裂き、よっつに裂き、テーブルに置いた。

「入れないのかよ、もったいない」

「俺はさあ、太陽が見たいんだよ」

彼は僕のことばを無視して、わけのわからないことを言った。

「太陽なら、見えてるよ、ええと、この席からだとちょうど見えないみたいだけど」

「そうじゃないんだ」

彼はゆるゆると首を振った。

「見えてないんだよ。俺たちは。俺たちが見ている太陽は、何枚も、何十枚も、何百枚もセロハンが貼られた太陽だ、そうだろ?」

僕は彼がなにをいっているのかさっぱりわからなかったので。とりあえずココアを飲んだ。何枚? 何十枚? セロハンを数えることに、なんの意味がある? セロハンは貼るか剥がすか、せいぜいがその程度のものだろう。

「俺はすべてを剥がしたいの。すべてを剥がした向こう側を見たいの」

「すべてなんて……担任の先生を困らせる小学生じゃあないんだから」

彼は僕を見て、少し言い淀んで、ひとことだけ哀しそうにつけくわえた。

「最近、なんだか寒いんだ。そうじゃないか」

それは、今日はじめて僕が賛成できることばだった。だけど、彼がなにをいっているのか、やっぱりわかりたくない気がして、僕はゆっくりココアを飲みながら、窓の外の、見えるはずのない太陽を目で探していた。



#創作三題噺深夜の60本一本勝負_20161212
21:00-22:00
妖怪三題噺( @3dai_yokai )から以下のお題をお借りしました。 
「太陽」「街」「セロハン」

「ヘンな100の質問」に答えてみた(前編)

1.どう、最近? 睡眠時間削ってる?

この寒いのに睡眠は削りたくないので今学期は朝早い授業を取らないという計画的反抗に及んでいます。

2.今日も100質やるよ、よろしくね。

というわけで「ヘンな100の質問」に答えてゆきます。
よろしくお願いします。

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ぼくのかんがえたさいきょうのじかんわり

毎学期、履修登録の時期になれば、自分のとりたい授業を決めることになる。もちろん、4年間(4年間とはいってない)履修計画もあるし、そのときどきの都合もあるし、完全に自分の好きなように決められるわけではないけど、それでも、細かい部分での選択はそれが自分に合っているか、どれを自分がやりたいか、という選択になってくる。

〈「教えて」には、どういうことをどういう風に教わりたいのか見えない註釈がたくさんある〉ーーらぎさんが昨日そんなことを言っていたけれど、好きな学び方とか、好きな知り方とか、恋愛とかでいえば好きなタイプとか、ぼくたちはすごくわがままにそういうのを持っていて、そういうのは名詞では説明しにくい。タグづけによって、特定の共通項を持つものを一覧するのがたやすくなったこの時代にあっても、「こういう感じが好き」というのは、ひとつひとつ目で見て肌で感じて、ことばにしにくいイメージで判断してゆくしかない。

それはたぶん、みずきさんが「あみめでぃあ」の3号に書いていたように、「居心地がいい」「居心地がわるい」というのが、ぼくたちとその場所との、どちらに属するともいいがたいものだからだろう。厳密さを捨てていえば、二重主語をとるからだろう。ぼくはあの街が懐かしいとか、ぼくは水泳が得意じゃないとか、二重主語をとる述語は、その心地がぼくと対象のどちらにあるものなのかを簡単にきりわけられない(それなのにこうしてすっぽりことばに収まっているという事実には、感動さえ覚える)。

みずきさんが「あのレストランの居心地は36点くらいだな」とはいえない、といういいかたで指摘している通り、「居心地」というものはたぶん「居心地がいい」「居心地がわるい」ということを離れて名詞だけとりだすことが適切ではない。

そしてそれは前提として、そうやって目の前に取り出せないものだからこそ、それは自分にとって都合が良いだけのもの、精神的コストが低いだけのものになってやしないか、ということが不安になる。

(恋愛的な意味での)好きなタイプをきかれても、たしかにこういうひとと付き合いたいみたいなのが想像のレベルではあるけれど、それはけっきょくはたとえばぼくのコミュ力を補ってくれたりするような能力をやんわり言い換えていたりするのであって、そんなことを願望として口に出すのはどうなんだ、と思う。

自分にとって居心地の良いクラスだけを選んでつくった「ぼくのかんがえたさいきょうのじかんわり」を眺めながら、そんなことを想った。

はあ、せっかくの休みなのに携帯とパソコンでそれぞれ問題が起きてあんま書けなかったなあ、また続きを書くことがあるかもしれない。

エピソードワンとは何か

前日譚を語るというのは、はじまりの物語を語るというのは、「それはそう」だった世界を「それはそうではなかったかもしれない」世界として描き直すということである。

たとえば、ある家庭で父親がいつも料理を作っていたとしよう。家で出てくる味噌汁がいつも麦味噌だったとして、子供たちはそれを麦味噌だということすら知らないかもしれないし、知っていたとしても味噌汁は麦味噌なのだろうといって、とくにそこに疑問は抱かない。

ところが、あとになって聞いてみれば、本当は父親は麦味噌ではなく麹味噌が好きで、独身時代は麦味噌で味噌汁をつくっていたのだけれど、母の住んでいた地域では麦味噌を使っていて、新婚時代にそれで大げんかになり、それ以来麦味噌になった――というようなエピソード(味噌汁エピソードONE)が発覚するかもしれない。

それまでなんの根拠もなく味噌汁はこの味噌だと思っていたものが、実はそれは麦味噌という味噌で、その麦味噌になった理由が具体的にあったということを子供たちはそこで知る。別の言い方をすれば、「どうして味噌汁はこの味なのか」という理由を、子どもたちは「それまでより明確に語れるようになる」のである。

ここで不思議な事態が起こる。

ぼくたちは、あるものごとについて確信を持つためには、それがそうなった理由や論理をきちんと正確に知ることが必要だと考えている。「どうしてこうなったのか」を知れば知るほど、なるほど間違いなくそうなのだとわかるような気がしている。それも一面的には事実なのだけれど、ある意味では真逆のことが起こっている。

味噌汁の例を続けるならば、彼らはそれまで味噌汁の味は味噌汁の味で、そこになんの疑問も抱いていなかったのに、それがそうではなかったかもしれない可能性――両親が昔喧嘩をしていなければ、俺たちにとっての味噌汁はこの味でないこともありえたかもしれない――を考えてしまう。

それはたぶん、言語というものが、なんらかのゆるふわ空間とセットで使われるもので、「丙」ということばは「甲でもなく乙でもない丙」という含意なしには語れないものだからだともいえるだろう。語ろうと思わなかったときには間違いのないものだったものが、語った瞬間にワンノブゼムになってしまう。

別の比喩でいうならば、「この先しばらくみちなりです」と言われたから迷わずぼーっと進むけれど、あとから地図を見てじつは獣道を通れば相当な近道ができたということを知る――そういう意味で、エピソードONEをわざわ語りなおすというのは、「それはそう」だったものを揺らがす行為なのだと思う。


クドクドとなんの話をしているかといえば、 本日21時から金曜ロードショーの枠でオンエアされる、「名探偵コナン エピソードONE ~小さくなった名探偵~」の話である(なんやてクドウ!)。 今日はぼくはなっちゃんのキャスを聞くという大事な予定があるのでコナンは録画で見るけれど、それはともかく、 原作者の全面監修のもと作られたという完全新作で、その名の通り、20年前に放送された第一話「ジェットコースター殺人事件」で描ききれなかった物語が描かれる――らしい。

ぼくらコナン懐古厨一派は、「最近のコナンは……」とかいってるうちに10年なり15年なりが経ち、いよいよ懐古厨している時間のほうがコナン史のなかでは長くなっているのではないかと思うけれど、一体この第一話リメイク(リメイクとはいってない)をどういう気持ちで見るのだろう、ということを考えていたのだ。

味噌汁の味を意識していないように、 工藤新一がどうして小さくなったのか、ぼくたちはそれほど気にしない。もちろん、未完成だった薬の副作用でぇ~~とちょっと思ってたけどじつは組織がこっそりやってる研究につながっててぇ~~などと、既存の設定をペラペラとしゃべることはできるけれど、そもそもぼくたちにとっては、工藤新一の体が縮んでいることはあたりまえのことで、話題に出すような対象ではない――だって、それがなければ名探偵コナンなどという物語は存在しないし、ぼくだってこんなところでコナン君の話などしていないのだ。

エピソード1を語り、 「工藤新一はなぜ、江戸川コナンになってしまったのか」、それが(今までとは別の説明で)描かれなおされれば、ぼくたちは否が応でも彼が縮まなかった世界(があったかもしれないこと)を考えてしまうことになる。そして、それでもやはり、ぼくたちは彼の体が縮んだ世界しか考えられない――それはフィクションの中でも、ぼくたちの世界の側としても――ということに気づき、その二重性に引き裂かれるのではないだろうか。

この点こそが大事だと思う、だって、これこそがぼくたち懐古厨のもつジレンマの縮図だからだ。つまりぼくたちは本当は、 「工藤新一はなぜ、江戸川コナンになってしまったのか」を語りたい (観たい) なったのではなく、「工藤新一が江戸川コナンになってしまったこと」を語りたい(観たい)のだ。

20周年――その節目にぼくたちが第一話(を深く描いたリメイク)をみんなでこうして見るのは、ぼくたちが大なり小なりコナンを愛しているからだろう。 もちろん、ほんとうに第一話からリアルタイムで見ていたひとはほとんどいないにしても、少なくとも10年なり15年なり前の、それぞれの生きている世界で、胸弾ませて月曜の夜7時半を待っていたころの、あのときの体験を大切にしたいと思っているからだろう。

せやけど工藤、いや工藤やのうて――くどいようだけれど、「大切なあのときの体験」を客観的に語ることなんてできない。だからぼくたち懐古厨は苦しみに苦しむのである。そして、一般にある妥協案として、その始原を客観的に語り直すという方法をとるのではないだろうか。


総じて、エピソード1を描くのはとても切ないことだといえる。語れば語るほど、たったひとつの真実に近づいていくようでいて、真実の真実性はゆらいでいく。「あの日、あの時、それぞれの場所で本当は何があったのか」、それが見事なロジックで明るみになっていくその裏側で、「それはそう」だったはずのはじまりは相対化されてゆく。

けれどいっぽうで、コナンくんはコナンくんで、「味噌汁の味」は「味噌汁の味」である。それが麦味噌であると知って、麹味噌でもありえたかもしれないと知ったところで、自分がそれに慣れ親しんでいることは変わらない。ぼくたちのなかでコナンくんはコナンくんなのである。それが、コナンを好きだということで、懐古厨だということなのだから。

だからこそ、懐古厨よ、エピソード1を見よう。

たしかに、 「これは俺の事件だ!」と両親に啖呵を切っていたコナンがFBIやCIAや公安の助けをぽんぽこ使っているのはいかがなものかとか、 ボール射出ベルトはいつから何個もボールが出せるようになったんだとか(『天空の難破船』ほか多数)、涙を流さないという一点がコナンに唯一守らせたいことだったんじゃなかったのかとか(『絶海の探偵』)、音痴なのに絶対音感なのはどうなんだとか(『戦慄の楽譜』)、ぼくたちは越水七槻が好きなのであってボクっ娘女子高生探偵なら誰でもいいわけじゃないんだとか、そういうことを思うときもあるだろう。

だけれど、そんなことがいいたいわけじゃないだろう。ほんとうは、ただぼくたちはあのn年前に自分たちが名探偵コナンを見て心から楽しんでいたということをいいたいだけなんだ。

そして、そういうぼくたちの好きだったコナンくんのことは、今が悪いとか悪くないとかとは全く別次元で、そのまま説明することができないものなのだ。それを説明するためにことばを尽くしても、ことばを尽くせば尽くすほど、ぼくたちは不安になってゆく。

だけれど、その切なさを乗り越えてエピソードワンを見よう。コナンくんを追い続けよう。相対化されても、だいじょうぶ、思い出は大事に持っていればいいんだ。 コナンくんに思いを寄せて悲しい表情をしていたころの哀ちゃんが最近すっかりそんな表情も見せなくなったのだとしても、それはそれとして、大切にしまいこんで、どうしてだかコナンくんが生まれてしまった世界で、 ぼくたちが好きなコナンくんを、追い続けていこう。



ああ……ちがうんだ……ぼくはコナンが好きなだけなんだ、コナンが…哀たんが…(ここで力尽きる)

どうしてぼくは、また「冬という季節のぼく」になっているのだろうか

 夏がくれば夏のぼくとつながり、冬がくれば冬のぼくとつながる。
 そうやってぼくたちは、螺旋的に歳を重ねる、渋谷の東急ハンズみたいに。
 誰が設計したのだろうか、この迷路のような人生を。

 ぼくたちはよく覚えているものについては、いちいち真面目に見ていないみたいなこともよく聞く。
 いつも通る川沿いの道はもしかしたら最初の2、3回しか見ていなくて、あとはそのときの記憶を重ねてバーチャルに歩いているのかもしれない。
 そんな極端な話なわけはないのだけれど、そう思いながら帰っているとなんだかそんな気がしてくるから可笑しい。
 マスクから漏れ出る白い吐息が眼鏡を曇らせて、ただでさえ真っ暗な夜道がさらに見えなくなって、でもぼくは道を見ているような、気がしてくる。
 ぼくはなにになにを重ねているんだろうか。

 どこかの街に遊びに行った時、その街の思い出を思い出し、昔きいてた曲を聴けばその時代と同期する。
 そうやってぼくたちは、人生が縦横斜めに整理され、勝手に糸を通されて、通し損ねた糸が絡まったりする。
 ぼくはそんなふうに整理しているつもりはないのに、おなじところを歩いていると思えるのはなぜだろう。

 なぜぼくは失敗するたび、この展開は前にもあった、と思うのだろう。
 「おなじ時のレールを歩いている」なら、おなじとはなんだろう。
 元気なぼくにつながりたいときに元気なぼくを呼びだせればいいのだが、そういうふうにはできていないのはなぜだろう。

 この文章は誰が書いているんだろう。

 ブログを書いているときはブログを書くぼくが現れて、それが串刺しになるようにアーカイブが溜まっていく。
 螺旋階段のひとつの壁面としての練物語、この壁面はどうして、ここにこうやって積み上がっていくのだろう。

鈴虫(習作)

くるくるくる。透明なガラスケースのなかで、円盤が回っている。

僕はそっと目を閉じる。

心地よい高音が響く。
これより高周波だったら、甲高くて不快だったかもしれないな、と思うような、ぎりぎりの、絶妙な高音。
のっぺりと続くわけでもなく、いくつかの混じり合う音どうしが、息継ぎをするように交代して、円弧を描くように重なり合う。
虹に虫偏がつくのは、こういう虫の声の印象なんじゃないだろうかと、そういえば思ったことがあった。

「また『それ』で聞いてるんですね」

虫の声に、女性の声が重なる。

「そうだよ。この声を聞くなら、CDに限る」

答える僕の声は、なんだか虫の声や女性の声に比べて、その場にそぐわない感じがした。

「そんなものを再生しなくても、鈴虫くらい私が生演奏するのに」

彼女がそれを指摘したのは、この会話が初めてではなかった。
それまでも何度も、僕たちはそれについてはしゃべってきたのだった。

「そういってくれるのは嬉しいんだけどね。君は鈴虫じゃないんだから」

僕のその返事も、何度目かのものだったはずだ。
そう応えることなんて全部わかっているくせに、そんなふうに会話をふってくれるところが、僕はとても好きだった。

「私は鈴虫じゃないですけど、鈴虫の声は奏でられますよ」

「鈴虫の声は鈴虫じゃなきゃ意味ないよ、たましいは声に宿るもんさ」

「もっともらしく聞こえますけど、鈴虫の声って、羽で出していたんですよ。だったら、私が物理的にこすりだして創る音のほうが本物に近いじゃないですか」

彼女のいうことも非常にもっともらしく聞こえた。

「それだけじゃないですよ。CDにしたって。いまから見れば大差ないかもしれないですけど、コンパクトディスクのほんの少し前まで行けば、カセットテープとかレコードとか、それこそアナログなものがあるんですよ。その時代まで遡るって言うんなら、まだわからないでもないですけど」

「そりゃあ、僕だってそれで聞けるなら聞きたいけどね」

「ちょっと意地悪いってみただけですよ。鈴虫の声を記録したカセットだのレコードなんて、たぶん地球のどこにも存在してないでしょうからね」

まともに再生できるレコードだってあるか怪しいだろう、と僕は思う。
博物館に収められてたそうしたアナログの記憶媒体は、これ以上の破損を防ぐため、もう何十年も再生されていない。
そんな話をどこかで聞いた。

「まったく、人類の貴重な資料が失われたことだよ!」

「たいした問題じゃないですよ。いまどきそんな古代生物の発する音を聞こうとするのは、せんぱいくらいでしょうから」

「まあね、でもこれが落ち着くんだ」

いつの間にか、鈴虫の声は止まっている。
CDに収録されているのは、ほんの数分なのだ。

「そんなへんてこなCDプレイヤーをつくるのも、せんぱいくらいです」

彼女が、形式はそのままに話題を切り替える。
こういう独特のジャンプも、彼女の得意技だった。

「そうだよ。どうしても回っているところが見たくてね。いまの媒体で、こうして中が見えるものはなかなかないから」

「中といっても、CDのなかが見えるわけでもないのに」

「いいんだよ、ほんとうに見えなくても」

「そっちは、録音ですよね」

うぃんっ。
彼女が『手』を伸ばすときの、独特の機械音が響く。

「そう」

「そんなにずっと録り続けて、いつ聴くんですか」

「わからない、なんとなく残しておきたいんだよ」

「どうせ私はぜんぶ、覚えているのに」

「僕は覚えてないよ。それにぜんぶ覚えててもさ、会話は会話だよ。だから、君だってこうして会話してくれるわけだしね」

「私が会話しているのは、あなたがそういう設定にしたからです」

「そうだね」

数秒の沈黙があった。
僕がくるくる回す椅子の、きゅるきゅるという音だけが響く。

「せんぱい」

「はい」

「ごめんなさい、そういうことはいわない約束でした」

「いいよ」

ときどき約束を破るのも、僕のした設定だったけれど。

「まあたしかに、せっかくこんなに何百枚も録音してるのに聴かないも勿体ないね。なんなら僕の死ぬときにでも、君のお気に入りの一枚を流してくれたらいいんじゃない」

「縁起でもないこといわないでください」

「いやいや、僕のほうがたぶん先に死ぬからね。僕は君の『せんぱい』という設定だから」

笑い声が混じる。

「せんぱいは……     」

だんだん、彼女の、ミウの声が、遠くなった。

「君にいわれたくは……    」

僕の声も、遠ざかってゆく。

僕はゆっくりと目を開ける。
体を転がす力はもう残っていなかった。
どうにか、頭を少し傾けて、視界の端にCDプレイヤーを捉える。

くるくるくる。透明なガラスケースのなかで、円盤が回っている。

どこか遠くで、鈴虫の声が聞こえたような気がした。




#創作三題噺深夜の60分一本勝負
#創作三題噺深夜の60分一本勝負_20161207
21:00-22:00

妖怪三題噺( @3dai_yokai )から以下のお題をお借りしました。

「ロボット」「虫」「CD」
.

あるものはあるんだ

忘れていたけどブログもけっこうな記事数があるし、合同誌とか、いろんなとこで文章を書いてもいる。ぺらぺらと、あるいはへらへらと、理屈っぽいことを書いてきた。抽象度をあげていえば、もうずいぶんと長いあいだそんなことをしてきた。

だけど、やっぱりほんとうは、へらへらなんてしていられなくて、ただ生きているということが不思議でしょうがない。そういえば100質の最初のほうの、「存在とは」みたいな問いに答えていなかったけど、わからないものはわからない。わかるのはどういうわけか存在しているとしか思えないという感じだけだ。

傷口に無数の蟻が群がって、その気持ち悪さに叫び声をあげるというおぞましい夢を見たことがある。いや、傷口というのはイメージを抱いてもらうためのとりあえずの表現であって、夢の中では「傷口」というよりも、自分という輪郭の裂けめ、境界の破れめとでもいうようなものだったように思う。

目が覚めたときぼくは心からほっとしたものだ。目は閉じていたので身体を確認したわけではないのだけれど、ぼくの輪郭は(少なくとも夢の中よりは明確に)はっきりとしている、確実にある、という感覚があり、ぼくはその感覚の「端的さ」に感動した。

端的というのか、文字どおり「端(ハシ)」的というか、要するに「無根拠だけれどとにかく事実としてそうである」というありよう。どうしようもない感じである。

当たり前のことなんだけど、ぼくたちが恋に悩むのも、懐古厨になるのも、いやな仕事がつらいのも、「なんでかわからないけどあるものはあるんだよ」としかいえないくらいどうしようもなく「あるものはある」からだ。「つらいものはつらい」からだ。それを「でもこれはこうもいえてね…」と相対化しても(じつは)意味がない。というか、一瞬崩せたような気がして、世界を崩し切ったあとにまた問いが戻ってくる。そういうことを、もうなんどもやってきた。

「おなじ」と「ちがう」は固定されたものではなくあれこれ範囲をいじれる、みたいこともよくいっているけれど、それは恣意性を強調して、崩すべき前提を一度崩すために手段としてそう言っているだけで、数学における同一視みたいに、ほんとうに自在に操れるわけではないのだ。いや、数学における同一視だって、どうして一部の同一視にだけ特別な名前がついているのかということを考え出せば、けっきょくぼくたち側の話になってこざるをえないだろう。

よく出されるタイプの例だけど、あれとこれが同じだというのは、ある意味ではやっぱり勝手に決まってしまうものだ。ぼくたちはトマトと林檎を同じ色だと定義して赤という概念を使うのではないーートマトと林檎とアボカドが並んでいたら、ついついトマトと林檎の赤さをひとくくりで見てしまうのである(異論は挟みうる)。

なにが恣意的なのか、なにが定められているのか、なにがあるのか。あるとして、それは世界にあるのか、言語の上のはなしなのか、ぼくたちの身体の問題に還元できるのか。すべては言語だとかいいたくなるわりに、けっこうナイーブにこういうところをぐるぐるしたくなる。昔も今も、ぼくはずっとぐるぐるしている。

「日常100の質問」に答えてみた(後編)

昨日のつづきです

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「日常100の質問」に答えてみた(前編)


1:今日はよろしくね!

(答えたくない)といってしまった手前、ぼくが最初に答えるしかなくなってしまった…!
ということで、問われたてホヤホヤの「日常100の質問」に答えていきます。
よろしくお願いします。
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10年あとの備忘録(もしかしたら、2006年のぼくのための)

あんまり中身のある記事ではなく(重要)、2016時点の備忘録みたいなものとして書く。
忘れないだろうと思っていたことを、ぼくらは案外忘れるものだ。

   ⊂('ω'⊂ )))Σ≡=─༄༅༄༅༄༅༄༅༄༅

10年前、ぼくは14歳だった。そして14歳はぼくにとって特別な数字だった。19歳と同じか、それ以上には。

しんがりのどっかにもちらっと書いた気がするし、このブログのどこかの夏の話にも書いた気がするのでなにがあったか詳しくは書かないけれど(とかいって延々書きそうな気がして怖い)、夏休みにとあるイベントに男女5人で出場した。

なんて説明するのがいいんだろうか、文学的であり演劇的であるイベントとでもいうようなものがあって、それ自体がいろいろとぼくの原点になっているんだけど、それだけじゃなくて、とてもいい思い出だった。

いい思い出、なんて言い方で今ならさらりと言えるんだけれど、当時のぼくにはもっと重くて、なんというか、それからの中学高校生活を、ずっとその夏を思いながら過ごしていたのだ。(そしてめがねさんの証言によれば、近年のちくわもしょっちゅう「あの夏」とか言ってたらしい。)

あの夏みたいなことがしたい。あの夏の体験を追体験したい。あれが完成形なのだ、と。美化といえば美化だし、ほんとうにその夏が楽しかったといえばやっぱりほんとに楽しかったんだろう。

翌年、中学三年生になったぼくは、そのメンバーで同じイベントに出ようとしたのだけど、中学生らしい男女関係のあれやこれやがあり(珍しくぼくはそれに絡んでいないのだが(!))今風に言えばサークルがクラッシュして、出場は叶わなかった。ぼくとスシロー好きな(とのちに形容されることになる)友人だけが残り、ほかのメンバーを総入れ替えして出場した。

ありがたいことだけど、そこで初出場になった友人とかは、けっこうそれも原体験のひとつとして覚えてくれてるみたいである。そして実際ぼくにとってもひとつの思い出ではあるのだけれど、まだ14歳の夏から1年しか経っていなかった当時のぼくは(ひどい話だが)これはコピーにすぎなくて、ぼくの求めていた夏には届かないという気分を強めていた。

その直後の文化祭で、初めて役者として演劇というものを経験した。似たようなことは小学生からやってきていたので初めてという感じでもなかったけど、それはまあ楽しくて、これを使ってあの夏へ! みたいな感じにたぶんぼくの中でなった(奇しくもそのときにやったのは成井豊の『ナツヤスミ語辞典』という、夏を懐かしみたくなるような作品だった)のかどうだったか、よく覚えてないけど、高校生になって演劇部をつくろうと奔走することになる。

稽古とか演劇部っぽい活動はめっちゃみんなでしてたんだけど、演劇部もつくれなくて、精神的にもそこでもいろいろと挫折があって(あみめでぃあの第4号参照)、いつかみんなで芝居しようねと約束(あみめでぃあ第1号参照)し、その話はそこで終わった。高校1年生。ミクロレベルだといろいろドラマチックな展開があって、そのときの「日誌」がかなり読んで面白いものだったのだけど、紛失してしまって未だに見つからない。もう見つからないのかもしれない。

それから高2になって地域のアマチュア劇団に参加させてもらったりとか、1年で3本ほど、役者としてお芝居に参加することになる(そのへんははぼくの本名でぐぐると最初に出てくるやつに書いてあるから割愛)。

それはとても良い経験だったし、演劇としてはすごく楽しんだのだけど、ぼくはやっぱり学内の友人となにかに向けてがんばる、みたいなのが理念型(つまり14歳の夏のイメージ)としてあったので、これじゃあないんだよってずっと思い続けていた。今思えばなんだかなあという感じでもあるけど、当時の日記とかを読む限りは本当に切実だった(っぽい)のだ。

高3になって総文=全国高等学校総合文化祭、いうなれば文化部のインターハイみたいなのが地元であって、そのときにぼくが抱いた複雑な感情はとても書ききれるものではない。見る側、聞く側、楽しむ側としての参加はとても楽しかったけど、自分がつくる側ではない悔しさでいっぱいだった。

写真を見たときのことっていつか書いたかなあ。忘れてしまったけど、写真部の展示を見て「ああ、これを撮るために3年間を捧げたひとがいるんだ」と心から思って、そのときは友達と見てたんだけど、あとでひとりでもう1回見に行ったくらいには心が揺れた。まあ、吹っ切れたとも記憶してるし、逆にコンプレックスみたいなのが最高潮のまま保存されたともいえる。つながり的なことでいえば、その中に(県内のものの展示という形で)あめ子さんの写真もあったらしいという話があとからわかった。

そういうわけで(どういうわけだ)ぼくは総文大好きマンとなったのである。総文大好きマンになったあたりと、口蹄疫の問題(しんがりのHNの由来について書いてる記事を参照)と、本格的に受験生になったあたりと、ツイッターを始めた時期がほぼ同時期で、ツイッター上で総文つながりで仲良くなった宮崎や九州のひと(黒崎さん、ねこさん、あめ子さん、凪瑳さんetc、あと総文とは別のつながりでねぎくんetc)が、19歳のぼくに多大なる影響を与えることになって、そこで人生観がいろいろ変わったぼくが東京に出てきて、このブログを書き始める「田舎から出てきてあたふたしてるちくわ」に接続されるというわけである。

ああ、書いてて気づいたけど、ぼくの断片を断片的に知ってる人に、ああ、それがそこにつながるのね、みたいな「なるほど〜」感を持って欲しいという気持ちは多少あったのかもしれない。でもほんとは、そういうのはブログに書くより会話でする方が好きだ。ちょっと個人情報っぽい感じするしね。だからというわけではないけど、今日もずいぶんと削り削り書いている。無味乾燥になっちゃったな。細かいことっていうのは、もっと関係ない話をしてるところで滲み出るものだと思う。

はい。これがぼくが大好きだったぼくの過去、というか過去が大好きだったころのぼくが大好きだったぼくの過去、のメインラインですだ。10年という記号を2016年のぼくはどう使うのだろうと、たぶん10年前のぼくはドキドキしながら想っていたけど、けっきょく2016年のぼくはそれを単なる数字にしか思っていない。14歳から10年経って、19歳から5年経って、でもどうも今年は象徴的な年というわけではないらしいね。

大切だった思い出はほんとうに大切で、それがいまのぼくよりもっとほんとうのほんとうに大切だったころのぼくも大切だけれど、それを10年という数字をそれっぽく用いて情緒的に語れる感覚が、いまのぼくにはほとんどない。今日もアドベントカレンダーとかがなければ、こんなこと書かなかっただろう。年末に書くのも大げさで自分の気持ちにそぐわないから、先に消化したという感じが強い。

それはあのころのぼくにとっては失望することだろう。それこそが怖かったのだというだろう。ごめんね、だけど、ちがうんだ。忘れたんじゃない。世界は広いし、その広さは過去をきちんと包み込んだうえで広いんだ。そして未来はとんでもないことが起こる。2006年のぼくには無茶な要求だけど、君にこそあみめでぃあ5冊に書いたことを読んでほしい。大事な節目をこんなに雑に扱うとはぼくも思っていなかったけれど、ぼくにはぼくの考えたいことというのがあるんだ。

それじゃあ、いつの日かまた会おう。

好きに読んでください。

 じゃあなんで書かなくなったのという問いにふさわしい答えとして、「言い訳する世界がなくなった」というのがある。ぼくがブログをあれほど熱狂的に書いていたのは、学んだことを消化したいわけでもなく、PV数を稼ぎたいわけでもなく、広告収入を獲得したいわけでもなく、出会いを求めているわけでもなく、知識を披瀝することに躍起になっていたわけでもなく、単に誤解されるのがこわかったからだと自己分析する。

 いまは、よくもわるくも、誤解をされないで済むようになった。あるいは誤解されてもいいような付き合いかたをメインにしているのかもしれない。そのあたりの自己変容はまだよくわかっていないけれど、とにかく「誤解をとくためにあれこれ言わなければならないじぶん」というのを喪っているのだと思う。

らららぎ「ブログを書くには、言い訳する世界が必要だった



これは本当によくわかる(という話をこないだしたら非公開だったところを再公開してくれた)。ぼくがブログを書かなくなったり、ツイッターを昔ほどやらなくなったのも、ほかにも色々理由はあるのだけれど一番はこれ。言い訳としてこれだけは言っておかないと、というほどのことが、あまりなくなったからなのだと思う。

それはたとえば(らららぎさんがそう書いているのと同様)実際にぼくのことをわかってくれるひとが十分に増えたということでもあるし、もともとたくさんの人がそばにいたことを再確認できたということでもあるだろうし、すべてのひとにわかってもらえなくてもいいんだと思えたということでもあるし、「わかる/わからない」ということばの意味がぼくの中でなにかしら変化したということでもある。わざとネガティブな側面を言えば、「ひとつの主張をわかってもらうために全力を注いでまで何かを得ようとするモチベーション」が下がったということでもある。

総じて、といっていいのか、もしかしたら部分的なこととしか関連はないのかもしれないけど、ともかく、人と話したりネット上でやりとりするときのスタンスが、数年でじわじわと変わってきたことのひとつの象徴なのだと思う。

たとえば今でも覚えているけれど、2年前の夏にネット上で恋愛観を書いていたら、意外と書いていることが全然伝わらなくて悲しくて、言葉に言葉を重ね、しかし誤読と誤解が深まるばかりで、正直げんなりした、ということがあった(あのとき好きだった子が読んでいたからムキになっていた面もあるので、そのときのこと自体はわりとどうでもいいのだが)。

けっきょく、なんというか、本当に言いたいことがあるときというのは、140字そこらがいくつか積み重なった程度ではやっぱり伝わらないのだ。それが悪いとかそういうことじゃなくて、伝わる、伝わらないという尺度を持ち出してしまった途端、それは伝わらないねって話になってしまう。だから、よほど相手が直接なにか質問をしているという文脈でもない限り、正確になにかを伝えるというスタンスでああいうツールは使いたくない。

じつはこれは140字だから顕著にあらわれているのであって、長文だろうが会話だろうがおなじなわけだ。ことばというのは、自分が思っている以上に自分の歴史とか、自分のつかってきたことばとか、思想とか、そういうのがダブっているので、自分が思っているニュアンスに近づけるにはよほど文脈を共有している相手でないと無理だろう。そして当然ながら、ねぎくんとかがよく戒めとして書いているように、誰かれかまわず文脈を押し付けるのもまたよくないことだ。

そういう意味でいえば最近は、「文脈がわかるひとにはその文脈で伝わるかもしれないけど、まあべつにそうじゃないほうがふつうだし、知らない人が読んだらそれはそれでその人の中でなにかの意味としてスパークするだろう」、そうだといいな、と思いながら文章を書いている。書いているってブログもツイッターも更新してないじゃんと言われるかもしれないけど、たとえば文芸誌(あみめでぃあ)とかで書いている。

半年前に出した(つまり去年の冬〜春に書いていた)第4号の「『だまされる』の取扱説明書」なんかは、3万字だか4万字だかになってしまったのだけど、量は書きすぎだったとして、それだけ書いているとぼくのなかではつながっているけど普通に読んでもつながらないだろうな、と思われる箇所とかがけっこうある(文章のつながりが不自然って意味じゃなくて、ある文章の謎がのちに べつの文章で解けるみたいな感じ)。

で、まあそういうのは、読んでいる人にはあんまり伝わらないだろうし、それが伝わらなかった場合でも「おもしろい文章」になるように心がけようと思っている(実行できてるとはいってない)。ぼくの意図とぜんぜんちがうところで、なにかとなにかをつなげてくれたらいいなという気持ち。

ロジックの面白さはロジックが好きな人にしか伝わらないし、レトリックの良さはレトリックを肌で感じる人にしか伝わらない。いや、ええと、書く話だけじゃなくてね。もっと、事前にはなかったその場の良さみたいなものがあるという話なのだよね。

いまはもう会わなくなってしまったけど、2年くらい前によく会ってた女の子がいて、その子はそういうコミュニケーションが上手だった。

彼女は自分が考えていることをとりあえずめっちゃしゃべって、ぼくがそれになんかいろいろ言うんだけど、ぼくはほら、そのときは言いたいことを伝えようという一心だったので、その場のことより言いたいことを言いたいってなっちゃって、いろいろ空気読まずに言うんだけど、当然ぼくがそんな姿勢だもんで言いたいことは伝わらず、それなのにその子は「わかった!え、待って、すごい!」って言って話をつなげてくれるんだ。まるでそれで新しいことを思いついた、みたいな感じで。

たぶん、ぼくのいったことばが、ぼくのいったつもりの意味を離れて、彼女の心の中のなにかとなにかをつなげたんだと思う。それはぼくには見えないけれど、それはとても素敵なことで、そしてあれこそがコミュニケーションなんだなと今では思う。

この例の場合は、もちろんぼくは全然すごくなくて、それどころかぼくはそういうやりとりをする感じではなかったのに、その子がそういうふうに引き出して利用してくれたことがすごいのだ。

そんな感じで、ぼくも少しずつ、そういういろんな可能性に、というのかな、誤解されたり誤読されたりすることに開けていたいなと思う。

そういえば、その子に「ちくわくんは頑固だよね」といわれたことがある。いわれてはじめて確かにそうだなと気づいたのだけど、ぼくは、自分の言ったことばの意味とかロジックが通じていないとわかると、それが別に重要な主張じゃなくても通じるまで何回もいう癖がある。そういうところを指摘してくれたのだ。今回書いたことも考えると、まさしく象徴的なことだったと思う。

ごちゃごちゃと書いたけど要するに、たいていは主張を通すことより、楽しくおしゃべりすることが大事だよね。ってことがいいたかった。

展開させたい話はまだまだ色々あるけど、先は長いし、このへんで。
今日も今日とて1時間で書いたのでこんな感じです。まあ、好きに読んでください。

おひさしぶりです

オフトゥンをラブに喩えた人がいた。いなかったかもしれない。ラブをオフトゥンにだったかな。まあいいよ、ともかくオフトゥンは暖かい。りりりりりりーん。りりりりりりーん。黒電話が鳴っている。黒電話。この音の名を黒電話なんて覚え方をしたおぼえはない。絶対音感ってこんな感じなのかな。音を確かめる前に、黒電話、アイフォンのせいだ、黒電話、黒電話。ぼくは世界から黒電話を消す。ぼくはオフトゥンに包まれる。ぬくぬく。包まれたままオフトゥンを離れた。離れてないんだけど、概念的に離れる。ぼくは歩いていた。オフトゥンは暖かい。一軒家の窓が見える。寒いなあ。暖かいんだけど。外が寒いからオフトゥンはあったかいのか、あれ、でも、ぼくはいま、外を歩いていて……なんでもいいか。ずっとこうしていたい。窓のなかに友人が見える。誰かと電話中のようだけど、こちらに気づいて手を振る。ああ、中に入れば美味しいシュークリームが食べられるんだ。ぼくには確信があった。おいしいシュークリームだ。だってそうじゃないか。超ロジカル! ぼくはオフトゥンのラブにくるまれながら、家の中に入る方法を考える。扉があるじゃあないか。ぼくは急いで室内へ駆け込んで、玄関に無造作に置かれた巨大なエクレアに…あれ、エクレアだっけ。シュークリームだったような…まあ、ともかくぼくはオフt

・・・オフトゥンをひっぺがされた。

???「ちくわさん!ちくわさん!」

なんだ。
エクレアは。
シュークリームは。
ちがう、オフトゥンだ。
寒い!寒い! オフトゥンを返せ!
ぼくのオフトゥンなんだぞ!

???「いいかげん長すぎですよ! スヌーズ機能の気持ち、そしてこうしてずっと待ってる私の気持ちも考えてください!」

なにをいってるんだ。
いいからオフトゥンを返そう。
健康な眠りはオフトゥンからはじまるし、
あらゆる世界の創造はオフトゥンとともにあった。
そんなことは考えればわかることだ。
これだから考えなしに動くひとびとは困る。

???「オフトゥーンじゃないですよ! もうディッツェンバーなんです!同じ展開を2回もやっている時間はないんですよ!」

やれやれ。

ぼく「同じ展開を2回もやってるのはそっちだろ、セリフも変わってないぞ」

わかっていた。
眠いのでよく思い出せないが、こんなことは1年前にもあった。
こいつはぼくを無理やり幸福に満ちた眠りから目覚めさせ、12月だからブログを書けと意味不明な難題をおしつけてくるのだ。
なにより困ったことに、こいつはオフトゥンをはぎとる。うばいとる。かすめとる。
オフトゥンが世界そのものであるぼくにとっては、こいつは世界の破壊者といってもいい存在なのである。

???「セリフは変えましたよ、今年は流行に乗せてドイツ語にしてみたんですよ」
ぼく「ぼくから言えることはただひとつだ、ぼくは今年もアドベントカレンダーでブログを毎日更新なんてしないし、そして第二にオフトゥンを君に渡すつもりもないんだ」
???「ただひとつって言って第二の主張が現れてるじゃないですか!」
ぼく「そんなことは会話の中ではよくあることじゃないか。これは原稿じゃないんだ。フランス人だっけ、『理由は3つある』っていってから考え始めるみたいな話があるけど、そんなことしないだけ優しいだろ。優しいぼくにオフトゥンを返してくれ、寒いんだよ」
???「フランス人がどうとかわかりません、日本なんですから日本の話をしてくださいよ」
ぼく「ディッツェンバーとかいってたひとに言われたくないよ!」
???「あ!そこで持ち出すんだぁ!さっきドヤ顔でドイツ語の話をしたときには完全にスルーしたくせにぃ!」

とかなんとかいいながらも、ぼくはオフトゥンを引っ張り引っ張り、なんとか奪還に成功した。
世界は平和に保たれた。

ぼく「ばたりぬす」
???「ばたりぬすじゃないです!話を進めましょう!」
ぼく「きいてるから続けて」
???「絶対寝るでしょ!」
ぼく「寝ない寝ない、体を起こしてるのが疲れたから寝転がって原稿書くだけ」
???「あなたまだ一度も体を布団から起こしてないですよ!」

りりりりりりーん!

ぼく「黒電話!」

ぼくは慌ててアイフォンのアラームを止める。
スヌーズではなく、きちんと「停止」を押したことを確認して、オフ

???「トゥンに戻らないでください」

ひどい。

???「何回その電話の音が鳴ったと思ってるんですか。まあそんなことはいいんですよ。12月はブログを書きましょう」
ぼく「でた! ほらでた!」

閃きあれ。
閃きがあった。

ぼく「わかった、君はあれだ、妖怪ブンショウカケだな?」
???「ぶん……なんですか?」
ぼく「妖怪ブンショウカケ。いろんなところに現れては、文章を書けと催促する生き物がいるらしいんだ。これって妖怪の仕業じゃないの」
???「ははは、いろんなところに現れて、文章を書けと催促する生き物なんているわけがぁ(笑)」
ぼく「おやすみ」
???「ちょっと!寸劇挟むんならオチまでちゃんと責任持ってくださいよ!」
ぼく「だって眠いんだ」
???「まあ、私はその妖怪なんとかではないですよ。どちらかというと、もっとやばそうなやつです」
ぼく「やばそうなやつ」
???「そうです」
ぼく「あれだな、askに数ヶ月おきに『ブログ書かないんですか』って送ってくるようなやつか」
???「それも私じゃないですよ!」

寝かせてほしい。
なんのための朝だ。
なんのためのオフトゥンだ。
この世界は眠ってこそ輝かしいものなのだ。
エクレアが消え、シュークリームが消え、ぼくはいよいよ人としての尊厳さえも奪われようとしている!

???「あなたは昨日寝る前に、朝起きたらブログを書こうと思っていたはずなんです。だから私が現れたんですよ」
ぼく「なんだそのあとづけ設定、ぼくはそんなこと思ってないぞ」
???「まあいいから思い出してください」

ふうむ。
ぼくは思い出す。
昨日の夜は、とある友人からの頼まれごとがあって、それの打ち合わせに行っていた。
初対面のひとに会って、というかぼく以外のみなさんがほとんど社会人というか真人間だったので、なんとなく心が硬くなった状態で家路について、それで。

ぼく「ははあ」
???「思い出しましたか」
ぼく「思い出したよ、うん、千代恋あめ氏の小説だね」
???「それです、それ」

焼きそば
過去への追想帰路

この2編を、寝ようと思っていたぼくはそれこそオフトゥンの中で読んだのだ。

ぼく「とても良かったんだ」
???「あなたはいつもそう言ってますね」
ぼく「いや、そうじゃなくて、飴的なやつじゃなくて…めっちゃよい…って感じだったんだ。それを書こうと思ってたんだけど、いかんせん書き始めるのが遅すぎて日付が変わっちゃいそうなのであんまり今日は本題に入れないんだけどさ」
???「メタ発言しないでください!なんのための対話形式なんですか!」
ぼく「ぼくは帰路のやつが特に好きでさ」

……みんな、そう、なのだろうか。もしそうなら、この機械的空気、一枚剥がせば賑やかになって、もっと楽しい……なんて、そんなことない。



ぼく「……のあたりのリズムとか、文体が、すごい時間が流れてる感じがするんだよね」
???「ふうむ。あなたには書けそうにないですね」
ぼく「そうそう、ぼくはのっぺりしちゃうからね。のっぺりずむ」
???「千代恋氏は、あみめでぃあのメンバーでもあるんですよね」
ぼく「そう。あみめでぃあっていう概念を編む文芸誌があって……」
???「対外的説明をしている時間はありません」
ぼく「そっちの彼は、ほんのときどきだけど、こういう文学的なものと概念の話が、うまく絡み合わない瞬間があって、というか、概念の話に気を遣ったゆえのものだと思うんだけど、ええと、彼の概念解釈みたいなのすごくおもしろいんだけど、絡まりかたでもったいないことになることが時たまあって、でも、この電車の文章はさ、めっちゃいい感じに絡まってるんだよ」
???「絡まってる。パスタとミートソース的な感じですかね」
ぼく「秒速5センチメートルもそうだけど、電車ってめっちゃ時間が流れるんだよね。移動してるのに移動してないから、二重の意味で時間らしさをもった時間がどーんとあるわけ。そういう時間が流れてる感じがなんか繊細に描いてあってさ、自分の心と世界と、どっちが先かわかんないけど影響しあって一気にそれ一色になる感じとか…」まあ、ぼくも一時期よく乗ってた区間だったってのもあるのかもしれないけど、ほええってなってさ」
???「語彙力がなくて困ってるところ恐縮ですが時間です」
ぼく「うぐぐ……」
???「やっぱり一年ぶりのブログを一時間で書こうというのが無理だったんですよ」
ぼく「予告編ということで、たぶんまたちゃんと書きます!!!!」
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