ここは、田舎から出てきたどこーにでもいそうな学生≪ちくわ≫が、日常に流れているあれやこれやを拾い集めて、ある日はすりつぶし、ある日はこねまわし、ひそやかに物語に練りなおしてゆく――そんな場所なのです。

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その断念の先が私の望んだ未来なのか

体調は回復に向かいつつはあるけれど全快はせず。寝て明日の朝に治ってるといいなぁ。

編集と執筆をしている共同ブログで 断念してきたこと のテーマで前々から書きたいことがあったのだけれど、今日ある人たちとある話をして、これからもそれを断念しつづけるのか、自問しなければならない状況が生まれた。いや勝手に生んでるだけですけどね。うまく言葉にまとまらないのは最近では久しぶりだけど、中高の地元で誰かに会うとわりとこういう感じになる。自分の備忘録として抽象的にでも書き留めておく。

色々なことを継続することによって生まれる達成感や喜び、それをぼくは人並みには知っているつもりだった。そして、十代のぼくはそれを礼賛して、それを求めて、周りの人をそこに引き込もうとさえしていた。けれど、なんだか、疲れてしまった。なんなのだろう。疲れたというのも無理やりあてはめた言葉であって、疲れたしやりたくないーというのとも本心はたぶん違うのだ。疲れたなんてセリフには、それは違うぞとコトダマをぶつけたいところなのだけれど、しかしそのための根拠は見つからない。これが大人になることだと言ったら、きっと熱意あふれる真の大人たちから怒られてしまうのだろう。けれど、少なくともぼくにとって、子ども時代の終わりと並行して、「何かに自分の時間を捧げて打ち込むという姿勢」への躊躇、あるいは怯みがどんどんと膨れあがっているのだ。高校を卒業してすぐは、これについて「子供時代のように、自分を見てくれる人がいない(※後見という考えも関連するかもしれない)」からだ、と暫定したけれど、どうも問題はそこだけではないようにも思える。わからない。

中高生のころは、自分で言うのも何だけれど、平均的な中高生よりも多くのことをやっていたと思うし、うまくいったかどうかはさておき(少なくとも充実はしていたのでうまくいっていると言っても差し支えなさそうだが)うまくいくことを目指してやろうという心があった。今は、自分より何もしてない人を探すほうが難しいかもしれない。どこで誰と話しても、その人の世界というものが伝わってくる。その人の生きている時間というものが見えてくる。ぼくも決して何もしていないわけではないけれど、ほかの人が今のぼくと話しても、たぶん、そういうものは見えてこないだろうなと思う。

乗り越えたい気もするし、もうそんなこと忘れて平穏にぐだぐだ生きたい気もする。どうするのだろう。どうなるのだろう。十代半ばの自分に見られたら、鼻で笑われそうだ。

深く考えるのはもう少し先にしておこうと思う。物語は、いつも予想外に展開する。
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