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ここは、田舎から出てきたどこーにでもいそうな学生≪ちくわ≫が、日常に流れているあれやこれやを拾い集めて、ある日はすりつぶし、ある日はこねまわし、ひそやかに物語に練りなおしてゆく――そんな場所なのです。

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世界のすみっこで嘘をついたねりもの

九月になって、また書くようにします、と言っておきながら、けっきょく書かなかった。やっぱり月一くらいの更新がちょうどいい。

半年ぶりの大学生だ、と書こうとして、実情を考えると一年近くぶりでは、と気づいてしまったので、久しぶりの大学生だ、あたりでお茶を濁しておこう。念のため念々のためにいちおう具体的に書けば、ぼくが初めて入った大学のほうに戻ってきた(は? なんのこっちゃ? ってひとはたぶんこのブログを読んでいないはずなので、構わず続ける)。最初の月が終わった。

細々とした問題は依然として絶えない(それはぼくの生きる態度の問題なので、こつこつ直していくしかない)けど、おおむね心穏やかに生きている。んんん、どうしてぼくは、心穏やかに生きているとことあるごとに言い聞かせるように言わなければならないのだろか。薄氷の上に立っている気がしているからだろか、薄氷といえばすごくどうでもいいのだけど、小学生のときに好きだった女の子が「氷の上に立つように」が好きだったのを思い出した。ぼくがまだコナンを深くは知らなかったころだ。

それはさておき、それでも今回の平穏が何を意味しているかといえば、やはり今までつねにあった怯えのようななにかが、じわりじわりと薄まった結果なのだろうと思う。練物語トレンドのひとつだけれど、ぼくの問題は「こわい」との対立にまつわる話につながっている。いまどうしてマシになったかといえば、それはまぁぼくがここにいてもいいのだろうと思っているからいてもよくなったというトートロジィじみた言い方でしか言えないわけだけど、消極的な選択の結果、つまりは逃げの積み重ねとして今があるのだとしても、それはぼくが選んだもので、「ぼくが選んだことなのかがわからない」という無意味なのだが消せない不安からは少しは解き放たれたということなのかもしれない。あまりに不器用な話だとは思う。「ぼくはここにいたい…ぼくはここにいてもいいんだ」というためにシンジくんは2クール使ったが、ぼくは半年どころでは済まず、同年代が大学を卒業してしまうころまでかかったということなのだ。

自分に水を差すようなことをいえば(差すが何故か変換されない)、なにかが始まったばかりのころにぼくが書くようなものというのは、ちっともアテにならなくて、その後の事実との連続性もなく、振り返ればハイテンションが空回りしているように見えるものだ。去年の春から夏にかけて書いたものとかそうだし、大学一年生のころからずっと、学期はじめはやたら出席率が高い(出席率100%文化のみなさんにおかれましては、そもそも高いとか低いとかなんの比較をしているのか理解できないでしょうが)みたいなジンクスもある(ジンクスとは言わない)。まぁしかし、ここからまた下り坂だとしても、山のてっぺんまで来て写真を撮らないというのも、もったいない話だよ…いつもそんなことを書いているな。だから、といってけっきょく書く。

よくぼくが言うことだけど、この大学は比較的、外に向けて言っているセルフイメージと、実情が一致している学校だと思う。褒めている。象徴的な例を挙げれば、たとえば受験生向けのパンフレットには芝生に寝転がったりして談笑している学生たちの姿が載せられていたりしている。それはよくある、まるでフリー素材になりそうな「きゃんぱすー」的空想イメージのようだが、しかしこの大学に来てみれば、それはほんとうに毎日のように見られる光景なのである(雨が降っていたりよほど寒かったりしなければ…いや、冬の寒い日でもなぜか芝生の上にこたつを持ってきて入ってるひとがいた)。ピクニック奴~とか嗤って揶揄するひとで溢れてるどっかの大学とはおおちg

ひねくれていたから認めたくなかった時期もあったけれど、みんな素直なのだ。嫌味っぽくないというか、斜に構えていない。といって、彼女たち(彼ら)がなにかを批判的に考えることが嫌いとか苦手というわけではないことは、いっしょに授業を受けていればわかる。あと出し設定だらけのぼくの人生だけど、これだけはあとづけでないと信じてほしいことがひとつあるとすれば、「ぼくのメンタリティにはとてもここが合っていた」ということ。(もちろん、ぼくがすでにここに二年間通っていたために文化が内面化していると解釈してもいいけれど、べつにそうだとしてもこの話は変わらないので、どちらでもいい)。だからぼくは戻ってきた、と物語る。物語を練る。それはたぶん嘘、というか間違いなく嘘だけど、嘘なのはツナギの部分であって、コロモの部分であって、タネではない。ぼくはここが好きだった。

どうしてなのだろうか、20歳、21歳のころのぼくは、ここにいることがとても苦しかったのだ。ここが好きだとは当時から自覚していたのに、あんなにも苦しかったのだ。淋しかったのかもしれない。入りたかったのかもしれない。自分が持っていた幻想の大学生像にもっと近づきたかったのかもしれない。

ここでは火曜日の昼すぎは(火曜日の昼すぎのコマは講義が行われない。学内各部署の説明会その他事務的な枠に使われる)、みんなが気ままに過ごしている。山の斜面でゴロゴロしているひともいれば、木の下でなにやら英文を読んでいるひともいて、芝生にテーブルと椅子まで持ってきてお茶会してる集団もいるし、部室の集まる塔では楽しそうにサークルの話し合いをしている子たちがいる。アコーディオンやら太鼓やらばよりんやらの音がぴーひゃらと聞こえてくる(いま書いた楽器どれひとつぴーひゃら鳴らないと気づいてしまったのでたぶん伏兵がいる)。数年前はその風景のなかを目を伏せながら歩いていたはずなのに、なぜかいまは心地好いとさえ思える。あのときと同じように独りで歩いているだけなのに。そんな風景を横目に、環を素イデアルで割ったものが整域になることを確認したりしているだけなのに。

たとえば。たとえば、それぞれのタイミングで、さまざまなめぐりあいのなかで、同じところに立ちたいと思ったひとがたくさんいて、その誰ひとりともほんとうに同じ位置に立つことはできなかった。何度も何度も何度も何度も同じことを思った。二年前のことを思い出す(2013年の9月30日は、あのひとと会った最後の日だった。あの日もぼくは線型代数の講義を受けていた)。一年前のことを思い出す。この半年のことを思い出す。いろいろあった。いろいろあって、誰かとほんとうに同じところに立つなんてことは、そうそうありえず、むしろ近づこうとすればするほど、その不可能性が肌に感じられるのだとわかった。いやわからなかった。わからなくて何度も繰り返して、たぶんまた繰り返すんだと思う。

いまからいうことはただそんなふうに練ってみたいという話で、つまり嘘なのだが、大嘘を書くならば、その繰り返しがあったから、ぼくはここにいていいんだと思えたのかもしれない。つまり、ぼくがなにかの当事者になったところで、当事者にならなかったときと、淋しさは変わらないのだ。いっぱんに、ひととか、ひとの輪とか、そういうものに近づければラッキィだとは思うけど、近づかないことが淋しいわけではないのだ。きっと近づいたって淋しいのだから。近づいたほうが淋しいのだから。

ひらきなおっているわけではなく、ぼくは人間が大好きで、これまでかかわった人たちがたぶんみんな好きで、それはそうなんだけど、だからといってたとえばああした幸せな空間に「いながらいない」ことが、べつにとくべつ淋しくないとわかってしまったのですよ。あれは平常運転なのだ。だれもがああやって賑やかな芝生に挟まれた道を歩いているのだ。それは芝生に寝っころがって談笑するのと、そのときの淋しさとさしたるちがいはなく、そのときの幸せさとさしたるちがいはない。

ぼくは一員だった。たぶん世界の。ゆーとぴあ的な世界の。それは大騒ぎするようなことではなく、ひっそりとチラシの裏にでも書いて捨てておくようなことだ。次の日にはそうじゃないと思っていたときになにを思っていたかなんて忘れてしまうような思考だ。もしくはそのことを忘れてしまうような思考か。

中学校の文化祭前日、教室はクラス展示仕様になっていて、祭りの空気が漂いどこか浮かれた気分の放課後、ぼくはひとりで本を読んでいた。ぼっちとかじゃなくて、極めて仲のいい友人たちとかはたまたまその場にいなくて、ふつうのクラスメイトともふつうに仲は良くて、でもべつに話に参加するほどではなくて、のんびりと本を読んでいた。ぼくはクラスに溶けている感じがした。ぼくはひとりで本を読むことで、この場に参加しているような気がした。たぶん、あれが世界にいるということだったんじゃないかと、いまなんとなく思い出す。あれだけのことだったんじゃないのかと。

ぼくに書けるのはこういう文章だけだった。ぼくがぼくのために書けるのは、こういう。思い出したから、また、忘却しましょう。
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