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ここは、田舎から出てきたどこーにでもいそうな学生≪ちくわ≫が、日常に流れているあれやこれやを拾い集めて、ある日はすりつぶし、ある日はこねまわし、ひそやかに物語に練りなおしてゆく――そんな場所なのです。

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好きに読んでください。

 じゃあなんで書かなくなったのという問いにふさわしい答えとして、「言い訳する世界がなくなった」というのがある。ぼくがブログをあれほど熱狂的に書いていたのは、学んだことを消化したいわけでもなく、PV数を稼ぎたいわけでもなく、広告収入を獲得したいわけでもなく、出会いを求めているわけでもなく、知識を披瀝することに躍起になっていたわけでもなく、単に誤解されるのがこわかったからだと自己分析する。

 いまは、よくもわるくも、誤解をされないで済むようになった。あるいは誤解されてもいいような付き合いかたをメインにしているのかもしれない。そのあたりの自己変容はまだよくわかっていないけれど、とにかく「誤解をとくためにあれこれ言わなければならないじぶん」というのを喪っているのだと思う。

らららぎ「ブログを書くには、言い訳する世界が必要だった



これは本当によくわかる(という話をこないだしたら非公開だったところを再公開してくれた)。ぼくがブログを書かなくなったり、ツイッターを昔ほどやらなくなったのも、ほかにも色々理由はあるのだけれど一番はこれ。言い訳としてこれだけは言っておかないと、というほどのことが、あまりなくなったからなのだと思う。

それはたとえば(らららぎさんがそう書いているのと同様)実際にぼくのことをわかってくれるひとが十分に増えたということでもあるし、もともとたくさんの人がそばにいたことを再確認できたということでもあるだろうし、すべてのひとにわかってもらえなくてもいいんだと思えたということでもあるし、「わかる/わからない」ということばの意味がぼくの中でなにかしら変化したということでもある。わざとネガティブな側面を言えば、「ひとつの主張をわかってもらうために全力を注いでまで何かを得ようとするモチベーション」が下がったということでもある。

総じて、といっていいのか、もしかしたら部分的なこととしか関連はないのかもしれないけど、ともかく、人と話したりネット上でやりとりするときのスタンスが、数年でじわじわと変わってきたことのひとつの象徴なのだと思う。

たとえば今でも覚えているけれど、2年前の夏にネット上で恋愛観を書いていたら、意外と書いていることが全然伝わらなくて悲しくて、言葉に言葉を重ね、しかし誤読と誤解が深まるばかりで、正直げんなりした、ということがあった(あのとき好きだった子が読んでいたからムキになっていた面もあるので、そのときのこと自体はわりとどうでもいいのだが)。

けっきょく、なんというか、本当に言いたいことがあるときというのは、140字そこらがいくつか積み重なった程度ではやっぱり伝わらないのだ。それが悪いとかそういうことじゃなくて、伝わる、伝わらないという尺度を持ち出してしまった途端、それは伝わらないねって話になってしまう。だから、よほど相手が直接なにか質問をしているという文脈でもない限り、正確になにかを伝えるというスタンスでああいうツールは使いたくない。

じつはこれは140字だから顕著にあらわれているのであって、長文だろうが会話だろうがおなじなわけだ。ことばというのは、自分が思っている以上に自分の歴史とか、自分のつかってきたことばとか、思想とか、そういうのがダブっているので、自分が思っているニュアンスに近づけるにはよほど文脈を共有している相手でないと無理だろう。そして当然ながら、ねぎくんとかがよく戒めとして書いているように、誰かれかまわず文脈を押し付けるのもまたよくないことだ。

そういう意味でいえば最近は、「文脈がわかるひとにはその文脈で伝わるかもしれないけど、まあべつにそうじゃないほうがふつうだし、知らない人が読んだらそれはそれでその人の中でなにかの意味としてスパークするだろう」、そうだといいな、と思いながら文章を書いている。書いているってブログもツイッターも更新してないじゃんと言われるかもしれないけど、たとえば文芸誌(あみめでぃあ)とかで書いている。

半年前に出した(つまり去年の冬〜春に書いていた)第4号の「『だまされる』の取扱説明書」なんかは、3万字だか4万字だかになってしまったのだけど、量は書きすぎだったとして、それだけ書いているとぼくのなかではつながっているけど普通に読んでもつながらないだろうな、と思われる箇所とかがけっこうある(文章のつながりが不自然って意味じゃなくて、ある文章の謎がのちに べつの文章で解けるみたいな感じ)。

で、まあそういうのは、読んでいる人にはあんまり伝わらないだろうし、それが伝わらなかった場合でも「おもしろい文章」になるように心がけようと思っている(実行できてるとはいってない)。ぼくの意図とぜんぜんちがうところで、なにかとなにかをつなげてくれたらいいなという気持ち。

ロジックの面白さはロジックが好きな人にしか伝わらないし、レトリックの良さはレトリックを肌で感じる人にしか伝わらない。いや、ええと、書く話だけじゃなくてね。もっと、事前にはなかったその場の良さみたいなものがあるという話なのだよね。

いまはもう会わなくなってしまったけど、2年くらい前によく会ってた女の子がいて、その子はそういうコミュニケーションが上手だった。

彼女は自分が考えていることをとりあえずめっちゃしゃべって、ぼくがそれになんかいろいろ言うんだけど、ぼくはほら、そのときは言いたいことを伝えようという一心だったので、その場のことより言いたいことを言いたいってなっちゃって、いろいろ空気読まずに言うんだけど、当然ぼくがそんな姿勢だもんで言いたいことは伝わらず、それなのにその子は「わかった!え、待って、すごい!」って言って話をつなげてくれるんだ。まるでそれで新しいことを思いついた、みたいな感じで。

たぶん、ぼくのいったことばが、ぼくのいったつもりの意味を離れて、彼女の心の中のなにかとなにかをつなげたんだと思う。それはぼくには見えないけれど、それはとても素敵なことで、そしてあれこそがコミュニケーションなんだなと今では思う。

この例の場合は、もちろんぼくは全然すごくなくて、それどころかぼくはそういうやりとりをする感じではなかったのに、その子がそういうふうに引き出して利用してくれたことがすごいのだ。

そんな感じで、ぼくも少しずつ、そういういろんな可能性に、というのかな、誤解されたり誤読されたりすることに開けていたいなと思う。

そういえば、その子に「ちくわくんは頑固だよね」といわれたことがある。いわれてはじめて確かにそうだなと気づいたのだけど、ぼくは、自分の言ったことばの意味とかロジックが通じていないとわかると、それが別に重要な主張じゃなくても通じるまで何回もいう癖がある。そういうところを指摘してくれたのだ。今回書いたことも考えると、まさしく象徴的なことだったと思う。

ごちゃごちゃと書いたけど要するに、たいていは主張を通すことより、楽しくおしゃべりすることが大事だよね。ってことがいいたかった。

展開させたい話はまだまだ色々あるけど、先は長いし、このへんで。
今日も今日とて1時間で書いたのでこんな感じです。まあ、好きに読んでください。
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