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ここは、田舎から出てきたどこーにでもいそうな学生≪ちくわ≫が、日常に流れているあれやこれやを拾い集めて、ある日はすりつぶし、ある日はこねまわし、ひそやかに物語に練りなおしてゆく――そんな場所なのです。

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あるものはあるんだ

忘れていたけどブログもけっこうな記事数があるし、合同誌とか、いろんなとこで文章を書いてもいる。ぺらぺらと、あるいはへらへらと、理屈っぽいことを書いてきた。抽象度をあげていえば、もうずいぶんと長いあいだそんなことをしてきた。

だけど、やっぱりほんとうは、へらへらなんてしていられなくて、ただ生きているということが不思議でしょうがない。そういえば100質の最初のほうの、「存在とは」みたいな問いに答えていなかったけど、わからないものはわからない。わかるのはどういうわけか存在しているとしか思えないという感じだけだ。

傷口に無数の蟻が群がって、その気持ち悪さに叫び声をあげるというおぞましい夢を見たことがある。いや、傷口というのはイメージを抱いてもらうためのとりあえずの表現であって、夢の中では「傷口」というよりも、自分という輪郭の裂けめ、境界の破れめとでもいうようなものだったように思う。

目が覚めたときぼくは心からほっとしたものだ。目は閉じていたので身体を確認したわけではないのだけれど、ぼくの輪郭は(少なくとも夢の中よりは明確に)はっきりとしている、確実にある、という感覚があり、ぼくはその感覚の「端的さ」に感動した。

端的というのか、文字どおり「端(ハシ)」的というか、要するに「無根拠だけれどとにかく事実としてそうである」というありよう。どうしようもない感じである。

当たり前のことなんだけど、ぼくたちが恋に悩むのも、懐古厨になるのも、いやな仕事がつらいのも、「なんでかわからないけどあるものはあるんだよ」としかいえないくらいどうしようもなく「あるものはある」からだ。「つらいものはつらい」からだ。それを「でもこれはこうもいえてね…」と相対化しても(じつは)意味がない。というか、一瞬崩せたような気がして、世界を崩し切ったあとにまた問いが戻ってくる。そういうことを、もうなんどもやってきた。

「おなじ」と「ちがう」は固定されたものではなくあれこれ範囲をいじれる、みたいこともよくいっているけれど、それは恣意性を強調して、崩すべき前提を一度崩すために手段としてそう言っているだけで、数学における同一視みたいに、ほんとうに自在に操れるわけではないのだ。いや、数学における同一視だって、どうして一部の同一視にだけ特別な名前がついているのかということを考え出せば、けっきょくぼくたち側の話になってこざるをえないだろう。

よく出されるタイプの例だけど、あれとこれが同じだというのは、ある意味ではやっぱり勝手に決まってしまうものだ。ぼくたちはトマトと林檎を同じ色だと定義して赤という概念を使うのではないーートマトと林檎とアボカドが並んでいたら、ついついトマトと林檎の赤さをひとくくりで見てしまうのである(異論は挟みうる)。

なにが恣意的なのか、なにが定められているのか、なにがあるのか。あるとして、それは世界にあるのか、言語の上のはなしなのか、ぼくたちの身体の問題に還元できるのか。すべては言語だとかいいたくなるわりに、けっこうナイーブにこういうところをぐるぐるしたくなる。昔も今も、ぼくはずっとぐるぐるしている。
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