ここは、田舎から出てきたどこーにでもいそうな学生≪ちくわ≫が、日常に流れているあれやこれやを拾い集めて、ある日はすりつぶし、ある日はこねまわし、ひそやかに物語に練りなおしてゆく――そんな場所なのです。

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大人というのは、上手にお手玉ができる人のことです

三年前の今頃はちょうど高校の卒業式だった。2月の12日だったように思う。そこにいる18歳の僕……、君はどんな不安を抱えているのだろう。チョコレートをもらえるかどうかだろうか。うん、その年はもらえないよ。ちなみにその次の年もその次の年もその次の年ももらえないんだ、気をしっかりもってくれ。それとも大学受験のことだろうか。まぁ、その年は不合格になるよ。ちなみにその次の年も不合格なんだ。なに、結果は大した問題じゃなくなる。……いや、君が一番心配しているのはもしかしたらバレンタインでも入試でもなくて、「今の自分がどんどん消えていってしまう」ってことかもしれないね。だけど、それについてだけは、いちおう大丈夫なんだ。誰だって、自分が大事にしていたものが消えてしまうのは怖い。だから、消すんじゃないんだ。未熟なりにも大切に持ってきた思考だったり想いだったり……そういうのをまとめて袋につめて、ぽーんと投げておけばいい。誰かが受け取って、いつか投げ返してくれると信じてね。そうして、誰かが持っていてくれると信じているからこそ、次の大切ものを詰め始められるんじゃないだろうか。そうやって、君は「大人」になっていくんだ。

 

* * *

 

日記とブログは、それがプライベートなものか否かということ以外にも、いくつか違う点がある。ある人が、ブログには天気を書く欄がない、と指摘していた。確かにそうだ。小学生の頃に書くような日記は必ずといっていいほど、「○月△日×曜日 はれ」とか書いていたような気がする。何が言いたかったかというと、先週に引き続きまた外が大雪。きっといつか読み返したとき、2014年2月と言われるより、「あの立て続けにすごい雪が降った時期!」と記しておいた方がピンと来るにちがいない。

 

リアルタイムでこれを読んで下さっている方はまだ記憶に新しいかと思うけれど、一年前にも大雪が降った。ちょうど(僕の代が新成人となる)成人の日で、あのときも各地で大混乱だったようだ。僕は年始に高校で行われた成人式に参加していたこともあり、部屋にこもっていた。ところが新成人は無料でビックマックがもらえるという話を思い出し、よせばいいのに雪の中マクドナルドまで往復するという暴挙に出る。結果、折り畳み傘が折れてビックマックより高くついて……あ、はい、もうこのオチは聞き飽きましたね、お約束かと思って……本題に入りますね。

 

あの日、僕は大人と子供の違いについて思うことを文章にまとめた。今読み返しても中身の薄いこと書いてんなぁとは思うものの、まぁともかく何かを残しておくというのは大事で。結局「成人の日」という形式的なものがそのきっかけになっていたようだ。面白いのはここからで、僕が定期的にチェックして読んでいるブログの中に、ひとつ年下の方が書いているものが3つほどあるのだけれど、その3人のうち2人が成人(式)について触れていた。そしていずれも、大人とは何ぞやという問いについて、手さぐりで考えを巡らせていたようすがよくわかるのだ。(ところで残りのあと一人は年明けてから更新がない!!生きてるのかな!!) ようするに、《成人式》や《成人の日》がいかに形式的なものであれ――というより形式的なものだからこそ――大人ということについて改めて考えるきっかけとしてちゃんと機能しているじゃあないか、ということ。で、僕もあれから一年経って別のことを考えるようにもなったので、大人について思うところをまた何か残しておこうと思い、この文章を書くことにした。

 

≪大人になるというのは、お手玉をできるようになることだ≫というのが今回書きたいこと。まぁ、のんびり書いていく。ここでお手玉の布袋に喩えたのは、僕たち一人ひとりが持っている持論だったり、世界観だったり、思考の痕だったり、あるいはアイデンティティとか呼ばれるものだったりする。そういうものって普通、誰もが手放しくたくないと思ってしまうものじゃあないだろうか。少なくとも僕はずっとそう思って生きてきた。この世界には確かなものなどないと意識的にしろ無意識的にしろ感じていたからかもしれないけれど、とにかく、「せめて自分だけは変わらないでいたい」という臆病さが僕の中にはずっとあった。変わることが恐ろしかった。中学生の僕は14歳の自分こそが確実な自分であると信じていたから、その先は少しずつその自分を忘れて行くだけなのだと考えると途方もなく怖かった。自分の大切にしているものが遠ざかっていき、だんだんとその大切にしていたことまでも忘れてしまう未来に怯えていた。

 

月日は流れ、高校を卒業し、親元を離れて一年の浪人生活を過ごし、上京して大学に入り、僕は自分が予想した通り当時の感触すべてが薄れている自分に気づく。 僕も(周りから比べてどうかはともかく)少なくとも中学生の自分よりずっと世間ずれした、大人びた(笑)考えを持つようになっていた。人との関係なんて移ろいゆくものだと良くも悪くも諦めるようになり。想像していた以上に多様な生き方があると知り。ぴゅあぴゅあーだった恋愛観にも修正が入り。そんなときふと僕は哀しい気持ちになった。正確に言うなら、『昔の自分を忘れてしまっているのにそれに対して心が痛まないこと』に鈍い哀しみを覚えた。中学生の自分の「ほらね、僕の思った通り、そういうもんなんだよ……」という冷たい声が聞こえた気がした。

 

けれど最近になって、別の側面が見え始めてきたのだ。たとえば先日、中高時代に仲の良かった3人で久しぶりに会って話をしているとき、こんなことがあった。話の流れで

「人間関係というのは拡散していくものだからね。 昔からずっと見ている範囲だけで作られる関係っていうのは難しくなっていくよなぁ」

というようなことを僕が喋った。すると、ひとりの友達がこう言ったのだ。

「一番似合わない奴から一番似合わない台詞が出て来たなw」

 

……要するに、彼は中学生の僕が 「うおおおおおお今ある人間関係がこれからどんどんバラバラになっていくなんてつらいつらすぎる!!!誰か助けてくれ!!!!」 とそこかしこで叫んでいたことを覚えていてくれて、彼の中にある客観の中のひとつのパーツとしてそのときの僕を使ってくれているということだ!こんな嬉しいことがあるだろうか!

 

お前の個人的な喜びなんか知らねぇよって人もいると思うので、多少はぷらいべぇとから離れて、『図書館戦争』のアニメから引っぱってきた話を聞いてください、はい。第四話で、堂上篤が心の中で笠原郁へ投げかける、こんな印象的な言葉がある。

(※原作にも対応箇所があったと思うのですがいま手元にないので正確な引用ができません)

 

どうしてお前はそんなに似ているんだ

馬鹿だった頃の俺に
俺が捨ててきたはずのものを

どうして今更お前が後生大事に拾ってくる
そんな風にお前が無茶するたびに

突き放さずにはいられなかった

 

この言葉は、郁(=「お前」)が少女時代に、若き日の堂上(=「俺」)の無茶な行動により救われて感化されたという背景も踏まえたものなんだけれど、これこそ僕たちが少しずつ自分を更新して大人になっていく様子そのものじゃないだろうか。つまり、「あの頃の青い自分」の精神を受け継いでくれた人が横からやんややんや言ってくれるからこそ、自分は「大人」でいられる。昔の自分を自分から離すことができる。

 

自分から長い間切り離せなかったはずのもの――そして、その後なんとか乗り越えたもの、あるいは手放さざるを得なかったようなもの――を、誰かが持っていてくれる。「あのとき○○君言ってたよね」「それ昔の君からは想像もできない意見だな」「中高生のお前に聞かせてやりたいわwww」といったコミュニケーションの形でそのことに気づかされるたびに、僕は不思議と安心感を得る。いや、そんな直接的な言い方ではなく、かつてともに時間を過ごした相手が「そのときの僕の考え」を彼/彼女自身の意見の一部として持っていたりすることもある。「あれ?wwそれ僕がむかし君を説得するために散々使った理屈じゃないか??ww」なんてことも結構あって、そういうことがあるたびに、ほっとする。あぁ、こうやって誰かがリマインドしてくれるから、僕は考えを次に進めてても大丈夫なんだなぁ、って思う。

 

『今の自分』ではこの先やっていけそうにない、となんとなく思うことはあるし、常にあった。だけど、今の自分をどけない限り次の自分に近づけないとなると、僕たちは先へ進むのを躊躇してしまうんじゃないだろうか。脚本家の高橋洋が若者に向けてこんなことを言っていたのを思い出す。

 

あなたがたとしゃべっているとふいに洗脳された人間と会話しているような奇妙な気分に陥ることがある。決して病的だと言ってるのではない。若者は自分が仕込んだ知識で自分を洗脳してしまうものなのだ。それは否定されるべきものではない。そこにはあなたの個性を一生涯に渡って支配する重大なモティーフが含まれているはずだ。だがあなたはまだその活かし方を知らず、むしろ自分を守る鎧のようなものとして用いてしまう。あなたにとってそれは紛れもなく大切なものなのだ。ならばいったん突き放し、疑いの眼で見たところで失われるものではない。下世話な言い方だが「減るもんじゃないだろ」である。

(『映画の授業―映画美学校の教室から』黒沢清 主著)

 

いったん突き放さない限り先には進めないし、そんだけ信じてるなら突き放せるだろってことである。突き放すだけではなくて、僕は投げておきたい。大事なものほど、残しておきたいからこそ、投げておく。タイムカプセルみたいなものだけれど、もっと積極的かもしれない。お手玉のようにダイナミックなものだ。誰かの手を渡って、帰ってくることを信じる。そして投げたらまた、別のお手玉を手に持つ。しばらくしたら今度はそれを投げて……。

 

「投げる」手段として、僕はこれからも言葉を使おうと思う。人と話して、ついったで呟いて、ここに記事を書こうと思う。残しておきたい自分、だけどいつかは一旦突き放さなきゃいけない自分、そういうものを出来る限り言葉で表しておこうと思う。

 

ちょうどさっき、偶然にも、こたつむりさんのこんなつぶやきが目に留まった。

 

 

子どもの頃には気付けなかった方法か。でも、あとから見れば僕はできていたのかもしれない。これからはそれを積極的に使っていくだけのことだ。

 

なんだか、とても長くなった。

結局、この記事の冒頭に書いたことで全てだったかもしれない。

お手玉というのは、自分が手で持てるよりも多くのモノを持つための技術である。

いつか自分の手にまた返ってくると信じて、今持っているものをひとつずつ投げてみる、ただそれだけのこと。

せっせ、せっせと、そのときの自分を袋につめて。

大人になるというのは、そういう技術を身につけることなのだろう。

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コメント
No title
ちくわくんにチョコをあげたい人生だったよ
2014/02/15(土) 23:07 | URL | 無選別ドーナツ #-[ 編集]
生存しております。
2014/02/16(日) 10:22 | URL | 可愛い大学生 #-[ 編集]
Re: No title
ドーナツのお姉様ありがとうございます。まずコメントを頂いたことに泣いて喜んでいるので、これはもうチョコを頂いたも同然です。
2014/02/16(日) 18:27 | URL | ねりもの #-[ 編集]
Re: タイトルなし
自称「可愛い大学生」さん、生存報告ありがとうございます。
僕が自分で書いておいて、誰の何の報告か気付くまでかなりラグがあったなんて言えませんね、言えません。
ブログ開始以来初めてコメントがついた記事ですので、テンションが安定しておりません、ご了承ください。
2014/02/16(日) 18:31 | URL | ねりもの #-[ 編集]
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