ここは、田舎から出てきたどこーにでもいそうな学生≪ちくわ≫が、日常に流れているあれやこれやを拾い集めて、ある日はすりつぶし、ある日はこねまわし、ひそやかに物語に練りなおしてゆく――そんな場所なのです。

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22日目のアドベントカレンダーをはじめるよ

はじめに夢日記。

結婚後ののび太がやってきて新婚生活についてのブラックジョークを言っていったり、イノムと浄土宗は法然だっけ、みたいな話をしたりする。日本史選択じゃないから〜とこういうときだけそういうことをいってみる。起きてから思い出すと彼も日本史やってたか記憶が定かじゃないが。ちなみに浄土宗の話くらいは中学で習う、というかじゃなきゃ夢に出てこない‥…あと母親に怒られたりする、家の間取りが小学生時代の家。布団から這い出して眠いので隣の部屋でごろごろしてると、千代恋がやってきて、隣の田中さんの家に間違って荷物が届いてるかもしれないというので、二人で取りに行こうとして、でもパジャマだからと気づいて着替えようとして、よく覚えてないけど隣の田中さんの家に行く前に場面は転換した。気づくとクラス替えをしている。知らないクラスはいやだなあ、1組がよかったなあと思う、中学のとき3年連続1組だったからその記憶の残滓だろうか。新しく知り合った隣の席の女の子がとても優しくしてくれてテンションがあがるも、しばらくして「あの人はネカマだよ」と教えてもらってテンションがガタ落ちする。どう考えても現実に話をしてるのでネカマとかありえないのだが、そうした整合性は夢ならではである。夢のなかとはいえ結構本気で落ち込んだ。どんより。夢でよかった。あとなぜか黒崎さんが出てきた記憶もある。起きる直前のことはよく覚えていない。

おはよう。ここまでは実話、いや夢だから実話じゃないけども、とにかくね、それじゃあ12月22日のアドベントカレンダーをはじめるよ。

いやはや、夢というのは不思議なものだ。起きたらすぐに消えてしまう。断片はおぼえてるんだけど、すごい勢いでリアリティを喪っていって現実のロジックに暴力的に書き換えられる。昨日の夜より今朝の夢のほうが最近の出来事のはずなのに、ボクたちは昨日の夜のほうだけを覚えてて、夢のことは忘れてしまうんだ。

つまりさ、こういうことがいいたいんだ。ボクはずいぶんといろんなボクの連続で生きているような気がしてて、たしかにいろんなボクがいるんだけど、そのときに名指されるいろんなボクっていうのは、ボクボクボクたちっていうとただの一人称複数になっちゃうから、インドネシア語式に重ねてみたよ!でも「われわれ」もただの一人称複数だね……)のなかでも、やっぱり強いボクボクのことを思ってる。

今日は雨も降って、春みたいな気温だったからさ、春のボクが呼び出されてきて、不思議な感じだったんだけど(あほ山とばか山のあいだを通りながら、あ、山が禿げてるなあ、冬だからか、と気づいたのは、今日が春みたいな気候だったからかもしれない)、それでも、春夏秋冬のボクというのは、互いにべつのボクでありながら、それでも主流派のボクなんだよね。なんかもっと、夢のなかのボクみたいな、儚いボクもいるんだろうなって思った。

もちろん簡単にそいつらは出てこない。ブログを書くボクは、いくつかいてもやっぱり書くボクボクでしかなくて、そうそうマイナなボクボクに筆を執らせることはできないけれど、とはいえそれでも、毎日アドベントカレンダー妖怪が見張っててくれたおかげで、アドベントでもなければ書かなかったようなボクボクをたくさん呼べた。というか、全記事がそうだろう。ほとんど自己満足ではあったけれど、なかなか楽しかったよ。まだあと数日あるけど。

いろんなボクを呼ぶためには、それを呼ぶための文脈が必要で、その文脈を置くためには、なんていうんだろうね、それなりに安心感がないとできない。風呂敷を広げるためには広いスペースが必要で、怖くてガチガチに固まってるときってさ、とてもじゃないけどそんな場所を確保できないんだよね。

ボクはこの2年間、ずっとローカルであろうと言い続けてきた。よくおぼえてないけど、2年前にねぎくんと通話してたときにどちらからともなくそんな話になったんじゃなかったかな。あのころのボクというのはほんとうに世間というものが怖くて、社会というものが怖くて、その怖さはアカデミズムへの怖さと、おなじ構造を持ったものとしてボクのなかで重ねられていた。だから、そのころのボクにとって今よりずっと、そういう問題が切実だったのはなんとなくおぼえてる。

ローカルに生きるというのは、ボクひとりで生きないということであり、そして同時に世間のなかでも生きないということだ。いっけん無茶なようだけど、それを無茶だと思うところですでに罠にはまってる  ボクと世界という二元論にさ。たとえば市場原理信仰や科学信仰が強すぎて、そこから脱出するために極端に「ボク」に閉じこもる道へ進んでしまうみたいなこと。たとえば「社会に流布した価値観」を否定したいだけなのに「ボクさえ良ければなんでもいい」という独善的な思想を採ってしまうみたいなこと。

「『普通』の世界のすくいかた」から距離をおきたいのであれば、とりあえずは「ローカルな世界のすくいかた」を試すだけで良い、やけくそにならずとも、「仲間はたくさんいる」んだ、と、それがたぶん、2年前くらいに考えたり書いたりしてたことだった。時間が経ってみれば、ずいぶんと当たり前のことなんだけどね、あのころのボクはほんとうに疲弊してたんだ。

なんだかんだいってボクたちは、なんらかの価値観に身を浸すしかなくて、それはひとつより2、3あるに越したことはないんだけど、注意しなきゃいけないのは、それは「2、3」だからいいのであって、なんでもかんでも相対化して、ひとりで世界に立ち向かおうなんてしないほうがいいんだ、たぶんね。そしてその選んだ先というのは、間違いかもしれない、なんなら絶対に間違っている、ボクたちは神じゃないから、かならず間違う。だけど、間違わないことを目指すためにひとりになるよりは、間違っていることを織り込んで生きていくほうが、正しいとはいわないまでも、少なくとも「ボク向き」なんだと、そういまは思う。

数撃ちゃ当たるじゃないけどさ、いろんなボクを呼んではじめて、うまくいくこともある。それができるくらいには安心させてくれる場所がいくつかあって、ボクは本当に感謝してる。かっこうつけずにいえば、いい友達がたくさんいる、ありがとうってことだよ。これを読んでるだろうひとも、まず読まないだろう人も含めてみんなね。三日坊主なボクが22日もブログを書き続けられている(4年半の練物語史上、過去最長記録!)のも、キミたちのおかげだよ、ありがとう。

いつも心に中二病というのなら、まずはこういう中二病を、持って生きていこうよ。ボクはそうする。こちらからは以上だよ、厨二スピリッツにあふれるボクよ、還ってきたときに、また会おう。

できること

先週、2回連続で休講になった授業、先生がインフルエンザにかかっていたらしい。気をつけねば……。そういうわけでゲストスピーカーさん(代がかぶっててもおかしくないくらいの近い先輩だった)が改めてやってきて、いろいろお話があった最後に、アートのオークション、それもお金以外のものを使ったオークションをやってみましょう、というワークショップが行われた。

じっさいにアーティストさんがこうこうこういう作品ですと作品をプレゼンし、学生がそれにお金以外のもので入札していく。お金以外なので最後まで順列がわからない。インスタで写真を載せます、その作品がつくられるまでを描いた演劇をやります、100人規模のセミナーで時間を提供できます、実家から送られてきた箱いっぱいのみかんをあげます、歴史があるものつながりでへそのおと交換します、などなどいろいろ意見が出たが、「ぼくはつい作品に込められた物語を忘れてしまって、今回まわりを見てないことがよくわかったので、このスマホと交換します」というひとがいて、そのひとが落札して終わった。

スマホ、ほんとに渡しちゃっていいのか……??? と思ったけどまあそれはいいけど(よくない)、いろいろいわれてもつい脳内で金銭に換算して順位づけしてしまう癖が抜けず、貨幣から自由になるのは難しいなあと思った、というそれっぽい感想もまぁわりとどうでもよくて、ぼくがその模擬オークション(?)中ずっと考えていたのは、「自分になにができるか」をパッケージ化する度胸がぼくにはないなあということだった。

バイトしてるときとか、フリーペーパーの手伝いしてるときなんかによく思ってたけれど、自分のちょっとした能力みたいなの(ほかのシンプルな言い方がないのでとりあえず便宜的にそうかく)が発揮されるときって、ぜんぜん本業じゃないところ、つまり蕎麦をつくったり勉強教えたりとはぜんぜんべつのところで、食塩水の問題よろしくつゆの濃度を暗算できたり、エクセルで簡単な原価率計算表をつくれたり、pdfを結合するフリーソフトの存在を知ってたり、無許可で外でチラシを配っちゃ(ほんとうは)いけないということをわかってたり、文章を切り刻んで整理することに慣れていたり、その程度のことにすぎない。

そういうことが積み重なって多少は無価値ではない人間になったような幻想をみることはできるかもしれないけど、それは小さな問題がおきたときに「たまたま」対処できたり、小さな問題が起きることを「たまたま」予防できたりする程度のことであって、なにも問題が起きていないときに改めて聞かれて「ぼくはこういうことができる人間です」といえるようなものではない。だれしもそうだと思う。

もちろん能力というのは結果のことだから、それがもとから実在的にあるというのはそもそもへんてこなのかもしれないが、今回の「その作品をもらう代わりに、提供できるもの/こと」という文脈では、どうしても事前にパッケージ化することが求められるし、であればその枠組の中では確かに意味を持った「問題」になる。いっそ、これが比喩であれば、つまり現実中の会話なりのコミュニケーションの話であれば、たぶん文脈は相手とのすりあわせの中で決まっていくのだけれど、とはいえ、オークションの性質上こちらが声をあげるしかない。そこに金銭を使わないという縛りが入るのはなかなか面白い。文脈なしで使える価値こそ貨幣なのだから。

(ちなみにいえば、これはいわゆる就職活動などの場合とは明確に異なると思う、あれは向こうが使える人間を探しているというコンテクストがはっきりしているので、こちらからしかアプローチできないとはいえ事実上は先方がさきに声をあげている。)

自分になにができるか、をひとつの形式に落とし込んで、文脈抜きでひとに投げるような強さ、ぼくにはないなと思った。誤解のないように書いておけば、今日のような場ではなにかしら思いついたことはいったほうがいいし(それはコミュニケーションの問題だから)、考えること自体は楽しかったし、ほかのひとのを聞くことも含めとてもためになる時間だった。ただそれはそれとして、「できること福袋」を、コミュニケーションとは別のところで純粋につくることがぼくにはできない、ということを強く感じたという話で、それがいいことなのか悪いことなのか、書いててどんどんわからなくなったけど……どうだろうか、そういうのってみんなすぐ、思いつくものなのかな。

わたあめ前夜(三題噺)


「私、身を固めることになったんだ」

とても肌寒い日の夜、ぼくのもとを訪れた妹はそういった。今夜はほんとうに冷え込んでいて、ぼくはブランケットにくるまってぶるぶると震えていたので、妹がなにをいっているかわかるまでにしばらく時間がかかった。

「ええと、そう、それは、よかったね」

まずぼくの口から出てきたのはそれだった。

「わざわざここまで来るなんて、びっくりしたけど……そうかあ。どんなふうになるのかな」

妹が会いにくるのは久しぶりだった。特に、ぼくが雲にいるときに訪れるなんてことはあまりなかったはずだ。彼女としゃべるのは、地上でのことが多い。

「まだ完成形は決まってないんだけど……ひとまず固まってみることにした。たぶん、白い飴になるんじゃないかな」

「白い飴、いいじゃん」

「そうなのかな」

珍しく妹は歯切れが悪かった。

「だって、白だぜ。世の中には黒飴とかあるけど、あんなのど飴なんかとちがってさ、白は素敵な色じゃんか。それに白は……ほら、お祝いの色じゃんか」

ぼくは苦し紛れに適当な印象操作をする。たしかにこの下の国だと黒は喪で白は祝いごとって感じではあるけど、お隣の大陸にある大国では白は葬儀のイメージだったりするから、そんなのほんとうは文化による。

「そうだね、色はいいんだ。色はいいんだけど……」

彼女はことばを探してしばらく黙ったあと、ぽつりといった。

「お兄ちゃんはいいよね、どこでもいけるんだもん」

それは、妹の昔からの口癖だった。確かにぼくは、海にも空にも、この島国にもあの大陸にも、どこにでもいくことができた。あるいは、世界中を巡っていることこそが、ぼくという存在そのものだったのかもしれない。だけど、今日聞くそのことばは、いつもよりずっと重みを持って感じられた。

「私は、千歳飴にもなりたかった。この時期なら、クリスマスキャンディにもなれたかもしれない。ううん、もっとすごい、飴細工みたいな生き方もあったかもしれない」

ぼくだってわかっていた。ちゃかしてはいたけれど、本当に彼女が気にしているのは、白という色のことなんかじゃなくて、水飴から飴へと固まってしまうこと、ひとつの形をとってしまうことへと怖さなのだ。それは、いつまでも世界を循環しつづけて、ひとつの姿に身をやつすことのできないでいるぼくにはよくわかった。

「私はお兄ちゃんみたいに、世界中のひとにわかってもらいたかった」

彼女の告白をきいて、ぼくは自分が彼女にかけることばを持っていないことに気づいた。彼女のほうが、ぼくなんかよりずっと悩んでいたのだ。ぼくが世界中で逃げ続けているあいだに、この子は……。

「世界中にいったって、もう誰もわかってなんかくれないよ。この国は水不足だって忘れてるし、それよりは」

それよりは、おいしいキャンディでも口に入れたいと願っているだろう。ぼくのことなんて、誰も気にしていないのだ。ぼくはなんにでもなれたが、なんにもなれなかった。

「白の本質は〈塗れる〉ことだと思うんだよ」

「お兄ちゃんの本質は〈濡れる〉ことだね」

「妹に下ネタいわれると反応に困るんだよなあ」

「下ネタじゃないよ!」

わかってるわかってる、雨のことな。

「つまりさ、白いっていうのは、これからなにか別の存在がやってきたときに、塗り変えられる備えができているってことだと思うんだよ」

ぼくは話を戻し、独白を続けた。

「ぼくみたいなやつは、純粋であること、純水であることを、最後の砦にしてる。だから、見慣れないものは必ず不純物になってしまう。どんな固有の世界も、ぼくにとっては自分を〈濁す〉ものでしかない」

透明というのは、向こうが見えるということであり、そこになにかを加えるというのは見えなくなっていくということ。存在価値を失うことである。ぼくは、不透明になるのが怖かったのだ。それこそ白色だとしても、目に見える存在になることが怖かったのだ。ぼくが自分を濁されることを恐れている間に、飴はこんなに大人になって、これから、鮮やかに生まれ変われる準備を整えた。そういうことなのだと思う。

「お兄ちゃんだって……というより、お兄ちゃんのほうが、なんにでもなれるのに」

「なんにでもなれるということと、なんにでもなれる準備をしていることは、たぶん大きくちがうんだよ」

ぼくはそんなことしかいえなかった。この子は昔から、ぼくに甘えるのがうまかった。それは飴だからかもしれないし、妹だからかもしれない。今日もぼくに、なにかしらの形で甘えにきたのだろうけど、残念ながら、そんな妹にぼくのほうが甘えてしまったのかもしれない。いつだってそうなのだ。

「お兄ちゃんに会いにきてよかった。私たぶん、わたあめになるよ」

「わたあめ」

ぼくは無意識に復唱して、ゆっくり上を見上げる。この子は、ずっとずっと、なんにもできなかったぼくの姿を見てきたから、なにかはできる存在になることを決めたのだと思う。末っ子というのは、そういうものだ。強かで、現実をまっすぐ見つめている。もちろん、本人にそういっても、白々しく白をきって、そんなことないよというのだろうけど。

「私、こんなふうに、ふわふわで真っ白な、わたあめになる。初詣の屋台でもいいな」

ぼくは、ふわふわな雲を見つめながら、なにもいえなかった。

「小さいころ、お兄ちゃんが私に言ってくれたこと、覚えてる?」

どんなこと、とぼくは真っ白な天井から目を離さずに訊ねる。

「『飴には、人を幸せにする力がある。ひと一人分の幸せを、お前は持ってるんだよ』」

 *  *  *

空が白んできたころ、妹は帰っていった。

ぼくはゆっくり立ち上がり、雲の下の世界を見下ろす。
ここは肌寒いけれど、地上も今日は冷えているのだろうか。

「氷点下になってたらいいな……」

なんだか今日は無性に、白に染まりたかった。



#創作三題噺深夜の60本一本勝負_20161220
21:00-22:00
妖怪三題噺( @3dai_yokai )から以下のお題をお借りしました。 
「飴」「同胞」「白」

学生を語る語彙って意外と豊かではないのかもしれない(2015年の手記)

アドベント書く時間がないので(?)ちょいとずるいですが1年以上前に下書き段階で公開していなかった文章を放流しておきます。
いまとなっては当時感じていたリアリティがわからないのですが、それだからこそ逆に残しておく意味もあるかもしれませぬ。

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よい日だった

(日記断片、ハイコンテクスト、わかるひとにさえわからない)
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